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現在、機器の問題でブログの更新がやや難しくなっています。最新の記事はツイッターのほうに投稿し、このブログには可能なときに後追いで掲載するようにします。1日の記事が多いときにはブログに一気に投稿する場合があります。2020年9月18日(2021年6月1日修正)
ラベル メヒシバ の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
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2020年10月9日

道の記


緑に囲まれた喫茶店はなくなったのだった。それを忘れてこの道に入った。喫茶店の場所もよく覚えていなかった。ここではないかと思う場所は駐車場だったが、しかし舗装が少し古い。奥のほうでヒメムカシヨモギらしき草が1本、高く伸びていた。
 

すみれのプランターに復活したすみれは、つぼみと花のあとがあった。ガザニアやなでしこの仲間かと思う花やハハコグサの園芸種みたいな草(シロタエギク?)やメヒシバに囲まれていた。
 

覚えられないくらいいろいろな種類の草が生えている。文字どおり建物の裏道で歩く人もほとんどいない。何年か後にはこの一帯も工事が入るだろう。ここに生えている草たちがその工事を体験するかどうかはわからないが、草たちはいまこのときをにぎやかに生きていた。
 

2020 10/9
喫茶店 ヒメムカシヨモギ すみれのプランター スミレ ガザニア シロタエギク メヒシバ ナデシコ

2018年9月28日

道の記


クワクサが石塀の下に並んでいた。私が住む町ではクワクサをあまり見ないが、この町はクワクサ人口が多いようだ。うれしくなって写真を撮った。クワクサは終始しずかにしていた。

町は祭りの日だった。演舞台のまわりは人と屋台とでにぎわっていた。広場の隅でこどもたちがエノコログサやメヒシバとじゃれあっていた。

その町を訪ねたのはたぶん10年ぶりぐらい。以前立ち寄った場所に行ってみた。清水が流れる水路のそばが遊歩道になっていて、そのところどころに河童の像がいる。河童はそれぞれ思い思いの格好でそのときを楽しんでいた。祭りから帰ってくるこどもたちとすれ違い、これから祭りへ向かうこどもたちが向こう岸の道を駆けていった。

* * *

水路の辺の古いお宅が取り壊されている途中だった。まだ形が残っている裏手にまわると、土壁が半ば崩れて穴が開いていた。その壁を蔦が昇っていた。いろいろ思いながらその場を後にして水路の橋に差し掛かると、その家の敷地の枇杷の木が枝を水路へと迫り出していた。

雨になったが、めったに来ない町にせっかく来たので隣りの駅まで歩くことにした。道は長かった。なにか食べておけばよかった。日暮れも近づき、帰りはその隣り駅から列車に乗ろうと思った。小さな駅はご近所の方が管理している様子だったがもう窓口のカーテンが閉まっていた。時刻表を見ると私が思っていた時刻に列車がなく、1時間ほど間が空いていた。これはだめだ、と声が出た。窓口のカーテンの向こうに灯りが点いているのにその後で気付いた。

帰り道も長かった。向こうのほうだけ雲が薄くなったようで、地平線の上が赤く染まっていた。

* * *

その町へ通う最後の日に、道を変えて川沿いを歩いた。大水のときには恐ろしかったことだろうが、朝の小川は美しかった。曲がらなければいけない角を忘れて1つ先まで歩いてしまった。

初日に来たときに、駅前の道沿いで大きなクスノキを見かけた。むかしながらの工場の敷地ぎりぎりに立っている。その景色に見覚えがあって、ああこの町に自分はむかしたしかに来たのだと思ったのだった。最終日の空はこれまでになく晴れていて、クスノキもいっそうりんと立っていた。あいさつをして駅へ向かった。




2017年11月4日

道の記


ホウキギクが生えていた場所のあたりに少し太めの草の伐り株があった。一年草のホウキギクがこの秋のうちに芽を出せるのかどうかわからないが、伐り株は力を秘めているようにも見えた。そこにいたクワクサやメヒシバやたくさんの草も、もういちど芽を出そうとしているかもしれない。


クサギのトンネルにはツワブキの花が咲いていた。クサギの葉には枯れ色が入り始めていた。

2017年9月4日

道の記


まちなかでなくもっとたくさんの緑がふつうにある場所で草や木を見ていたら、こんなにまでひとつの草ひとつの木のことでつらい思いや悲しい思いをしなくて済んだのではという気持ちになることがある。

草も木もわたしが見ていようといまいと自分のいる場所自分のいる状況なりの命を生きて死ぬ。誰が見なくてもいいのだ。そう思うかたわらで、まるで呼び出されたかのように、たまたま通った道、たまたま曲がって入った道で、伐られたばかりの木、明日からの工事告知が出ている場所の草に出会ってきた。

そのことを意味付けなくてもいい。ただ自分はそうして草を木を見てきた。そんなことを今夜も考えながら歩いていた。

そのすぐ先で、道から見えていた大クスノキの林がなくなっていた。重機が何台も入っていて、丈の高い切り株もひとつ見えた。その向こうでアークトゥルスが低く輝いていた。



ほかの草が生えられるよう、茂りに茂ったメヒシバをはさみで刈り込んでいたら、指先を切った。それで刈るのををやめて手でむしっていたが、2本が根から抜けてしまった。抜くつもりはなかったが、植え直す手間をとらずに根を下にして置いてきた。

申し訳ないことだったと思う。

そしてそのメヒシバも誰かは見ていたかもしれない。


2017年8月27日

道の記


小径に入ると、待ってくれていたかのように隣に小さな木がいた。何度か伐られた様子があり、その最後の何度目かで伐るのをあきらめられた様子でもあった。地面近くで樹冠を横に広げていた。


メヒシバが茂るその道向かいはオヒシバの丘だった。


この草は種類がわからない、見たことがないようだけれど何の草だろう、と思いながら急いで通り過ぎた後、どこで見たのかもわからなくなった。


歩けるかぎりは歩きたい。

2016年9月29日

道の記


まちなかの公園にキツネノマゴが咲いていた。しゃがんで見ていると鳩が来た。私の顔を覗き込むので、餌はないよと断った。少し残念そうだった。キツネノマゴの葉に落ちる雨音は、消え入るようにかすかな、白っぽい音だった。


別の公園では、メヒシバやタチスズメノヒエが茂る中に種類がわからないひざ丈ぐらいの草が数多く生えていた。花が雨で閉じている。その閉じた花の1つに、ヤマトシジミ(蝶)がとまっていた。よく見るとあちこちでその同じ種類の花に同じようにヤマトシジミがとまって、雨の中じっとしていた。


別の草にはバッタがしがみついていた。

2016年8月15日

道の記


マンション工事の告知が出されている空き地。草で満ちあふれている。エノコログサやエノキグサやメヒシバ(種類は細かく見ていない)のなかに、名前を知らない園芸品種らしき花が何種類か見えた。もとのお家で育てていたものだろう。お家がなくなったいまも、そこは草たちの「庭」であり続けている。

日野啓三さんの短編「神の小さな庭で」を思い出している。だれかあの「庭」で遊んでいるのではなかろうか。

2016年7月23日

道の記


新聞の電話投稿欄に、大通りの中央分離帯に草が茂っていてみっともないみたいな趣旨の声が掲載されていた。見てきたが、クロガネモチみたいに見える樹木の下にアベリアやよくわからない低木が連ねて植えてあり、そのところどころからオオアレチノギク・ヒメムカシヨモギらしき草が伸び出している感じ。

中央分離帯をすみずみ見て歩くわけにいかず、沿道と横断歩道から見るだけだったが、カラスウリやメヒシバやケヤキの幼木なども生えていて、沿道の植え込みよりも多様な印象を受けた。手入れが行き届きにくいのかもしれないが、それがむしろさまざまな草が生き延びるのに好都合なのかもしれない。