道ゆく先々での、木々草々花々などさまざまの出会いとその後を、一筆箋に綴るつもりで。
From the Wayside: about my acquaintances of trees, flowers, weeds and others (written in Japanese)
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※ 現在、機器の問題でブログの更新がやや難しくなっています。最新の記事はツイッターのほうに投稿し、このブログには可能なときに後追いで掲載するようにします。1日の記事が多いときにはブログに一気に投稿する場合があります。2020年9月18日(2021年6月1日修正)
2020年4月24日
道の記
公園の桜も椿も木蓮も、以前赤テープが巻かれていたけれど、無事のようだった。木蓮がいくらか花を残していた。
小さな切り株の木蓮は芽をいくつか出していた。何度目の再生かわからないけれど、しっかり、と、声を掛けた。
ひさしぶりに飛行機雲を見た気がする。西へ伸びていくところ。ちょうど低い山辺に夕日が降りていく。飛行機はほんのひととききらりと光って、そのまま飛行機雲を伸ばしていった。
工事のフェンスが一部透明になっていて、その向こうがとても狭そうなのだが、先日そこでノゲシが私の背丈近くに伸びているのを見た。きょうもノゲシはそこで街灯に照らされていた。
小公園のコブシはやはり咲いているのだった。あおあおとした葉の合間合間に、ここでも街灯に照らされて白い花が開いている。足元にはここでもウラジロチチコグサが、穂を長く立てていた。
2020年2月18日
道の記
カンヒザクラが咲いていた。咲くには咲いたものの、この急な冷え込みで咲きかけて止まっているようにも見えた。
古いお屋敷を無くして建てられた低層の高級マンションの外周に、クスノキが植えられていた。ひょっとして以前に敷地内にいた木なのだろうかと思った。クスノキはそこそこ高いけれどもそう太くはなく、まっすぐしていて、幹の中途に忍草が生えていた。クスノキのほかに、樫の木が外周を囲んでいる。そういえばお屋敷の外周も樫の木だった。
切られる予告が出ているイヌマキの木々。切られるというのが信じがたいほど太くそびえ立っている。同じく大きく育ったツバキが高い所で花を咲かせている。イヌマキもツバキも、私の手が届くあたりに枝を下ろしていた。イヌマキの葉に触れた。その感触にイヌマキの全身が籠っている気がした。
2020年1月23日
道の記
春が来たからこの道を行くのではない。そう思っていても春を探している。
沿線の椿は咲いていた。つぼみをたくさん用意していた。となりではヨモギが茂り、そのなかでヤブランがいくらか実を残していた。工事はすぐ隣で続いているが、この場所がどうなるのかはまだわからなかった。
公園があった場所に立った。いま立っている場所は公園内にあたるはずだと高架橋の位置を見ながら思う。工事途上の道の横に積まれた土のうの下から、ミズヒキが出ていた。つぼみがあった。
以前ナガミヒナゲシが出ていたわずかばかりの土手では、コセンダングサが花を付けていた。
振り返ってもういちど、公園だったあたりを見た。むかしはここになかった踏切の音が響いていた。
2019年6月8日
道の記
高速道路下の歩道から緑地帯を抜けるけもの道ができていて、その脇に椿などの木々が茂った小さな一角があったのだが、先頃通ったときにそこが切り開かれて防水シートのようなものが敷かれていた。きょう、歩道を逸れてそのけもの道を通ってみた。ネズミムギやチガヤやヘラオオバコが両側に茂っている。防水シートの隙間からもいろいろな草が葉をのぞかせている。しかし木の芽はわからなかった。けもの道は鉄工所の前に出た。
かかちぃ、かかちぃ、と鳴き声が聞こえる水際の鳥を声だけで知っていたが、葦のような高い草が茂る一帯の1本の草の茎の頂に、鳥が1羽留まってそのように鳴いていた。遠目ではすずめに似ていて、頭から背がまだらの茶色、腹が白に見える。初めて声の主を見た気がする。きょうの運はこれで使い果たした気がした。
2018年9月27日
2016年9月26日
道の記
草も苔も生えていない民家の石垣の手前にぽつんとひとつだけ、アゼナの仲間のように見える小さな草が花を咲かせていた。
町内一斉清掃の時期にあわせて庭木の剪定をされるお家がけっこうある。実がついた椿の枝がごみ集積所に積んであった。別の通りではきのうきょう伐られたように見える柿の枝にやはり実がいくつもなっていた。
あちこちの塀の下できのうきょう草を抜いたと見える土の荒れ方をしていた。どこかでは草を燃す匂いもしていた。
いまこのまちなかで生き継いでいる草は、長年にわたる3月と9月の町内清掃のサイクルを生き延びてきているものと思う。でもこの時期が自分のライフサイクルの中で重要な時期に当たるような種類の草は、長年のうちになくなったかもしれない。そのようにしてこのまちで見られなくなった草もあるのかも。
※ 定期的な草刈りによって、その時点まで旺盛に茂っていた草に圧されていた草がのびのび育つようになる、という面もある。それは書いておかないと。
(ただそれは、「いいわるい両面がある」という話に落ち着くものではなかろうと思う)
一度倒れたと見える土手のセンダンの切り株から、ひこばえが伸びてたくさんの葉が茂っていた。これからもう一度伸びていこうとする木の力と、それを見守ろうというどなたかの思いが感じられた。
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