道ゆく先々での、木々草々花々などさまざまの出会いとその後を、一筆箋に綴るつもりで。
From the Wayside: about my acquaintances of trees, flowers, weeds and others (written in Japanese)
※ ページの下のほうにこのブログの説明・過去記事カレンダー・タグクラウドなどがあります
※ 現在、機器の問題でブログの更新がやや難しくなっています。最新の記事はツイッターのほうに投稿し、このブログには可能なときに後追いで掲載するようにします。1日の記事が多いときにはブログに一気に投稿する場合があります。2020年9月18日(2021年6月1日修正)
2018年12月31日
2018年12月29日
道の記
伐採に反対する声が上がっていた街路樹のケヤキが伐られたと新聞で読み、現地へ行った。道の両側のケヤキが1本を残して伐られていた。この前ここを訪ねたときに私が呼び止められた気がした銀行横のケヤキも、切り株になっていた。切り口はまだみずみずしかった。切り株を見ていると、道路を行く車の音がふととだえ、一瞬、何も音がしない時間が来た。そのとき、木の、ほんとうの声が聞こえた気がした。
ラベル:
ケヤキ,
新聞に載った街路樹ケヤキ
2018年12月24日
道の記
夏、ビルの谷間に出ているのを見つけたヨウシュヤマゴボウは、半分近く枯れていたけれども半分は緑を残していた。黒い実をたくさんたくさん実らせていた。大きな仕事だったのだ。
大通りに面していた桜がなくなったその跡地に、大きなクリスマスツリー型のイルミネーションが輝いていた。
「救い主生まれる」の貼り紙が出された教会の前を通って、ふいに思った。木に、草に、救い主が生まれるのはいつになるだろう。
クリスマスイブに訪ねているこぶしの木は、この前と変わらずに春の準備を進めていた。夜の街はにぎわいをいっそう増して、そのにぎわいの上に広がるしずかな領域に、木はすでに届いているようだった。
2018年12月23日
道の記
繁華街の歩道の路面にトウカエデの葉が足跡のように散らばっていた。歩き回ったというより、踊り明かしたような足跡だった。
中心街の木々は電飾が巻かれていた。ただ、木に配慮してのことか、それぞれの木の枝全体のうち半数くらいだけに電飾が施してあって、残る半数の枝は黒々としていた。四つ角のこぶしもそうしてあった。金の光に照らされた冬芽が、あたたかそうにも寒そうにも見えた。
いつもクリスマスイブに訪ねるこぶしの木を少し早めに訪ねた。今年は冬芽をたくさん付けていた。今度の春にはこれまで以上にたくさんの花を見せてくれるだろう。向こうで、そのこぶしの木よりはるかに大きなクリスマスの電飾ツリーが、にぎやかに、でもしずかに、輝いていた。
2018年12月16日
道の記
先日、街路樹の下のヤナギバルイラソウを剪定している方を見かけた。市が植えているものではなさそうで、おそらく近くの方だったのだろう。きょう通った同じ道の少し手前の場所で、ヤナギバルイラソウが寒さのためか少し色を変えてしなだれていた。
道の記
お焼香に伺う前に、彼もきっとたびたび来ただろう公園に立ち寄った。明るかった。こどもたちが何か、シートを持って公園内を歩き回っていた。ひとりの子が見ていたポールに、クイズが貼ってあった。木々はまだいくらか秋の装いを残していた。
道の記
マンション前の電柱ふもとの朝顔がどうしているか気に掛かっていたけれど、その道を行くことがしばらくなかった。だいぶひさしぶりにその道をバスで通った。バスからはその位置に緑らしきものは見えなかった。帰りにそこを歩いた。電柱の根元に枯れ色の小さな切り株があった。
橋の上から見る山は遠かった。陽を受けて陰影あざやかで手に取るように見えているのに。
夜にユッカの花に慰められた幹線道路沿いの施設跡地、敷地の端に何か丈の高い切り株が残されているのに気付いた。何の木かわからない。生きているかどうか道からではわからなかったが、生きているかどうかというよりただ屹立していた。
道の記
ナガミヒナゲシなどの草が生えては枯らされる駐車場脇の植え込みで、ハルジオンが1株咲いていた。早春の花をいまの時期に見ることはよくあるが、ハルジオンを年内に見られるとは思わなかった。株は小さく、花は様子を見るようにそっと咲いていた。
2018年12月12日
道の記
通りかかったお家の正面のサザンカが見事だった。建物が道に直に面していて庭や生垣などはないけれど、その木を大事にしておられる様子が伝わってきた。そのお家の敷地の端にも大きな木がいた。行きのときは急いでいて何の木かわからなかったが帰りにクロガネモチだとわかった。
公園のくすのきも桜もこの前と変わりなく過ごしているようだった。きょうはたくさんのこどもたちや大人たちを見守っていた。
2018年12月2日
道の記
昨日、路面に蓑虫がいた。触ると生きているようだった。生きている芋虫や毛虫はどこへ行きたいかわからないので私は路上で見つけても動かさないことが多い。ちょっと心配だったがそのままにしておくことにした。今日、成り行きで昨日と同じ道を通ったが、蓑虫は踏まれていた。近くの木のふもとに安置した。
交差点のランタナは伐られていた。伐り株から小さな芽がたくさん出ていた。
伐採木置き場の伐り株イチョウはだいぶ落葉していたが、いま落葉しているということは元気にしているということだろう。
この道もしばらく通らないかもしれない、と思いながら歩いた。伐られた柿の木などの伐り株たちも変わらず元気のようだった。
大クスノキの林だった丘はさらに掘削が進んでおおむね表土がむき出しになり、丘の中腹に大きな伐り株が斜めに置いてあった。その向こうに、祭壇のように、緑の一切ないクスノキの伐り株が低くそびえていた。
2018年11月29日
道の記
線路を挟んで向かい合っている上りホームと下りホームに分かれて、鳩が路面をつつきながら下り方向へ歩いていた。道は果てしなく続くようだった。
ひさしぶりに訪ねる街の初めて訪ねる公園は大きな池だった。中の島に1本のアオギリが生えていた。一度幹の途中で切られた様子があり、そこから枝が放射状に出ていた。足元にはキュウリグサが同じように放射状のロゼットを作って春待ちをしていた。
その池のまわりの土手を歩いていて、水際に茂っているランタナを上からのぞいて見ようとしたら、ひぴいっと言ってその下からカワセミが飛び出した。ランタナの下にもう1羽いるようで、しばらくその2羽で鳴き交わしていた。申し訳ないのでその場を離れた。そのもう1羽がランタナの下に居続けているのが見えた。
ナガミヒナゲシとトウバナが共存していたお家の裏手の小さな空地はどうやら車の駐車スペースだったようだ。いまは車のそばにチドメグサの仲間の草が生えていた。
2018年11月24日
道の記
ジョロウグモを路上から街路樹の根元に移した。土が入れ替えられたばかりで草が生えていない。少し歩いたら草が生えている所もあった。そこのほうがよかったのか、わからない。
いまは空いている田んぼの向こうに、満月が出ていた。満月はまっすぐこちらを向いていた。
道の端の黄色のコスモスをつい先日写真に撮った、その場所に差し掛かる橋の上で、満月に向かって国際宇宙ステーションの点光が飛んでいくのを見た。コスモスがこの光景を見せてくれたような気がして、ありがとうと伝えた。
2018年11月21日
2018年11月17日
道の記
2つ信号の以前オニタビラコが出ていた場所にはかわりにエノコログサが出ていたが、きょう通ったらオニタビラコのロゼットが出ていた。エノコログサは色が少し薄くなっていた。
足を伸ばして、以前何度か歩いた、大きな保存樹クスノキのいる小道を通った。クスノキのふもとに昔ながらの喫茶店があったのだが、シャッターが下ろされていた。クスノキは樹冠の道側を少し伐られたような様子があったが、あおく大きく茂っていた。喫茶店の隣の並びには新しそうに見えるお店が入っていた。
公園はいつもとかわらない秋の日差しだった。水面に向かって誰かが遠吠えのように歌っていた。
ラベル:
2つ信号のオニタビラコ,
エノコログサ,
オニタビラコ,
クスノキ,
まちに流れる音楽,
喫茶店,
小道の保存樹クスノキ,
水面
2018年11月14日
道の記
すみれのプランターの近くに出ていたキツネノマゴがおそらく草取りに遭っていなくなり、このあたりではキツネノマゴはもう見られないのかと気になって、信号待ちの間に探してみた。すみれのプランターから少し離れた別のプランターで、キツネノマゴが少し出ていた。花を終えた穂が立ち並んでいた。
クワクサもいた。葉が色褪せていた。おつかれさまと声を掛けた。その言葉でよかったのか今もわからないでいる。
道でなにかを拾っている様子の方をお見かけした。以前からスダジイの実が落ちている場所なので尋ねたらやはりそうだった。かんたんな調理方法を教えてくださった。もうすぐ100歳になりますよと、つやつやのお肌の笑顔でおっしゃった。
空は青かった。高い雲が形を崩しながら空に並んでいた。
2018年11月13日
道の記
ランタナ電柱のねこじゃらしはいなくなったが、ランタナの芽は残っていた。
タンポポ電柱はここしばらく何も草が出ていなかったが、イネ科のなにかの草のように見える小さな葉が出ていた。
ラベル:
セイヨウタンポポの電柱,
ランタナ,
何かの草,
電柱ランタナ
2018年11月7日
2018年11月3日
道の記
病気になったときに車に乗せられて通った道を歩いた。街路樹のホルトノキの実が落ちていた。ランタナのような花、里芋のような葉。伐り株があった。ホルトノキの葉のひこばえが出ていた。
いろいろな植物に取り囲まれたアパートは植物ともども健在だった。アメリカアサガオがアパートの主のようにたくさんの花をあざやかに咲かせていた。
電線に掛かりそうな枝を伐り落とされていた大きなくすのきは、この前訪ねたときは新しい枝をたくさん出していたが、きょうはその枝がたくさんの葉を茂らせていた。樹冠がしっかり出来ていた。くすのきは青空に大きな歌を歌っているようだった。
2018年11月2日
道の記
キカラスウリは上のほうのつるは切れているようだったが、下のほうは枯れていなかった。工事の手が及ぶのは時間の問題のように見えた。
排水溝から出ていたくすのきは網の高さで切られていた。また芽を出すだろう。
神社境内の伐られたくすのきは白っぽくなっていた。
橋の脇にイヌビワの木が生えている。ときどき伐られているが、最近は伐られていない。実がたくさんなっていた。大木になる気いっぱいのようだった。
道沿いの伐られた小さなくすのきは動きがなかった。
公園の伐られたくすのきはひこばえが見事に生長していた。もう人の背丈より高くなっていて、幹が緑色になっていた。木というよりは小さな森に生まれ変わっていた。
2018年10月31日
道の記
山里へ向かうバスから見える山も空も美しかった。道沿いのポケットパークに桜が5本並んでいる。紅葉していた。その桜の上に、底が平らな雲が山のほうからこちらへと並んでいた。
きょうはいつもより切なくならないでいると思っていたが、遠くの山を見ていると切なくなってきた。自分は誰を探しているのだろう。
棚田が見える直売所はみなさん変わらずお元気だった。先週刈り取ったとおっしゃる稲が棚田の下のほうに干されていた。清掃の寄り合いから降りてこられた方々が新米の銘柄を尋ねておられた。
林に囲まれた広場の樺の木も元気だった。来たときには山のほうにだけ陽が当たっていた。降りる頃には空はうすむらさきになって、樺の木やそのまわりの木々やその奥の深い林といっしょになって、暮れ色を見せてくれていた。
帰り道には火星が見えていた。バスを待つ間、夏の大三角やそのあたりの星々を眺めた。イリジウム衛星だと思う明るい人工衛星が、ヴェガのそばをすっと通って消えていった。
2018年10月30日
道の記
小さな川の河原にはオギのように見える白穂や高い草が立ち並んでいた。その1か所が赤かった。どうもケイトウがそこだけで咲いているようだった。こどもたちが自転車で川の向こうからやってきた。
何年ぶりかでこの街のこの道を歩く。そういえばここにガザニアが咲いていた、と、咲いているガザニアを見て思い出す。建物も空き地もあまり大きく変わっていないようで、以前歩いていた頃と同じように歩くことができた。
いちょうがとりたいの、おかあさん、と、男の子がいちょうの木の下でわざと甘えた感じの声をあげていた。男の子が走り去った後、そのいちょうの木を見上げた。実を取りたいのかと思っていたが、実は見当たらなかった。いちょうは色づき始めていた。
2018年10月27日
道の記
カラスが空の駐車場に集まっていた。そこで食事をしている様子。何を食べているか見えなかったが、少しぎんなんの香りがした。道の対岸に渡ると、ぎんなんの香りが強くした。スダジイの実がたくさん路面に散らばっていた。
ランタナ電柱のねこじゃらしと新しく芽を出し始めていたランタナはどちらも姿がなくなっていた。
けっきょく、人間とは生えてくる草をなくすだけのための存在なのかもしれない、と悲観的なことを思いながら、植え込みにたくさん生えているコメヒシバの穂を1本、手に取った。すでに実が実って散ってもいる。軸をさすって、ああたしかにコメヒシバだと指先で思った。こうしていることが人間として何であるのか私は知らない。知らないままでじゅうぶんしあわせだ。
植え込みの木はクロガネモチだった。離れて見ると、小さな世界の傘のようだった。
2018年10月26日
道の記
夕刊を配達する方のバイクの後をホタルガがついていった。
空き地のまんなかあたりのセイタカアワダチソウの花のところだけ陽が当たっていた。
ホタルガが歩道に伏せていた。踏まれた様子がある。近くの土の上に移そうと思って取り上げたが、近くに土が見当たらない。少し歩いて、ふつう私有地には虫を置いたりしないのだが、教会の敷地の隅の植え込みの土にホタルガを安置した。ホタルガにも救いを与えてあげてほしい。
ラベル:
セイタカアワダチソウ,
ホタルガ,
教会,
新聞配達の方
2018年10月24日
2018年10月23日
道の記
まもなく閉店と伝えられている少し変わった形の食事の店。自分は前を通るだけだったが、この場所のちょっとした特徴のように感じていた。2階入口へ昇る階段のふもとに、ヒメクグが少し大きめに茂っていた。帰りに通ったときには駐車場がいっぱいになっていた。
青空にそびえるイチョウを見て、ああそう言えばこの美術館が市に移管されてからきょう初めて訪ねるのだったと気付いた。前の美術館が閉じられたあの日もこのイチョウを見たのだった。イチョウの上の空が奇跡のように晴れたのだった。
(そのときには、奇跡でなくふつうのことのようだったと書いていた。)
その美術館の館内から裏手の丘が見える。木々が茂って散策コースになっている。その丘の上で、こどもさんと大人の方々が何か下のほうをのぞき込んでいるのがこちらから見えた。木の実を拾っている様子にも見えた。この景色が変わらず残っていることがありがたかった。
***
コスモスの道へ出る小さな坂で、以前訪ねていたお家の方とたまたま出会った。手仕事をなさる方で、その展示を拝見しに毎年のようにお訪ねしていたのだった。すぐわかったとおっしゃってくださった。お元気そうでなによりだった。すぐ上でコスモスがいつものように陽を浴びて咲いていた。
この夏、浸水した様子がテレビに映し出された公園。たくさんのこどもたちが遊んでいた。川では何か生き物を探している親子連れの方々も見かけた。芝生広場に出ると、向こうの連山の上に、上がってきたばかりの十三夜の月が雲の遠い仲間のように空に浮かんでいた。
***
その道の先では、川に小さな橋が掛かっている。だいぶ前にその橋の上で、欄干に腰掛けてゆっくりしておられたお歳の方と出会った。むかしの大水の話をゆっくりとしてくださった。その橋が遠くに見えた。その方の優しいお姿が橋の景色に重なって見えた。夕日はその先の山々を照らしていた。
2018年10月20日
道の記
クサギのトンネルだった場所では、木や草が伐られてなくなった斜面から少しずつ芽が出始めていた。ツワブキの葉が多かった。
林に囲まれていた旧家の跡地は全面何メートルぐらいか深く掘り下げてあった。もう猫も烏もいない。隣の敷地ではセイタカアワダチソウが1本、その跡地のほうへ傾げて咲いていた。
ラベル:
クサギのトンネル,
セイタカアワダチソウ,
ツワブキ,
林に囲まれた家の跡地
道の記
柿の木や唐実桜が植えてあった線路際の小さな緑地跡の真向かいのお家に柿の木があったのを先日見た。柿の木の緑地ではもっと以前にどなたかお近くの方のように見える方が手入れをしておられて、きっとその方のお宅なのだとひらめいたのだった。しかしそのお家は何か工事を始める様子に見えた。きょう通ったら、駐車場になっていた。一面アスファルトが敷かれていた。柿の木の緑地跡はすでに掘削されて鋼板が入れてあった。
2018年10月15日
道の記(五ヶ山・小川内)
五ヶ山・小川内を訪ねた。試験湛水中の五ケ山ダムの水位はこの夏に常時満水位に達していて、それ以降初めて訪ねた。
東小河内の桜は上部の数メートルを残して水没していた。水面上に残っている枝は遠目にはほのかに紅色に見えたが、双眼鏡では冬枯れのような白さにも見えた。隣のモッコクは梢の小枝が水面上に出ているだけだった。モッコクの小枝は上を向くと聞いているが、ちょうどそのようにたくさんの細かな枝がまっすぐに上を指していた。
小川内の側の、もともと小川内の杉がいた神社境内まわりだと思われるあたりで、杉の梢が湖面の上に残っていた。いちばん高さがあった木だろう。赤色をしていた。また、東小河内のより上流のほうの湖面に、あざやかな緑色の木の梢が見えた。若い木のように見えた。そして湖岸近くの下部が水没した木々は、ことごとく葉が落ち、もしくは変色していた。
ダムの試験湛水はまだ途中で、水位はこれからさらに数メートル上昇するらしい。
移設された小川内の杉は大過なく過ごしているようだった。短い間だけしかいなかったのでこの日全体のことはわからないが、訪れる人はまばらだった。
水面上にわずかだけ見えている桜は、冷たく眠っているようにも見えた。この眠りを来年覚ますのかどうか、いま私にはわからない。
道の記
ランタナ電柱のふもとに出てきたねこじゃらしは1株に穂を7つ付けていた。それから、ランタナが復活を始めたようで、枯れた小さな切り株の根元から新しい葉が出ていた。
小さな川を見下ろす道の端に、フジバカマの仲間の花が咲いていた。そこへアサギマダラがやってきた。2匹いる。近くへ寄っていったら、2匹とも去っていった。取り残されてそのフジバカマの仲間の花をひとり見た。花にも悪いことをした。
2018年10月13日
道の記
古木の金木犀が今年も花を咲かせたが、きょうはもう香りがしなくなっていた。おつかれさまと声を掛けた。花の時が過ぎていくのを感じながら、少し離れたところの柊木犀に近づくと、こちらは花が開き始めたところだった。香りはどうだろう、と、自分の鼻を花に近づけながら木の周りをぐるりと回った。香りはまだみたいだと思ったとき、ふわっと、鼻の中に甘い香りがした。
こどもさんを周りに従えた街角のクスノキの、そのこどもさんの周りで、イモカタバミがたくさん花を咲かせていた。
道の記
今日は、みみず、種類を知らない芋虫、小さなカメムシのような虫、こおろぎ、そして小さな哺乳類の動物を舗道の上から土の上に移した。生きていたのはそのうちの半数ほどだった。
切り開かれた大クスノキ林では、ボタンクサギの花がまた咲いていた。そのうちの1つの株が高く伸び上がっていた。その向こう、掘削された丘の手前に、複葉のように見える幼木と、フヨウのような葉をした幼木が伸びていた。工事はあれからあまり進んでいないように見えた。そのあいだに土地が林に戻ろうとしているようだった。
カンナは倒れたまま咲いていた。
少し前に、クサギのトンネルのクサギが伐採されてなくなっていたのをバスの車窓から見た。そこを歩いた。斜面に伐り株がぽつんぽつんと見えていた。台風が来ていたのに、切り落とされたクサギの枝が歩道の隅に残っていた。
2018年10月7日
ブログ開設1周年を迎えました
このブログを開設して1年経ちました。読んでくださってありがとうございます。
道の草や木やさまざまな物々とこのように関わっている者もいるのだと思っていただけましたらしあわせです。また、道の草や木やさまざまな物々がこのように「暮らして」いることを知っていただけましたら本望です。
海外でこのブログを読んでいる方々もいらっしゃるようで、とてもありがたいことです。海外の方々の多くはおそらく自動翻訳をご使用になられていることと思います。自動翻訳を使用した場合、主語が変わってしまったり(たとえば私が木になったり)、形容詞が他の名詞に係ってしまったり、同一の固有名詞が異なって訳されたりする現象が起きるようです。もともとの日本語文とは意味が変わっている可能性があることをご理解ください。
もうしばらく「道の記」を書いていきたいと思っています。ときどき読んでいただけたらうれしく思います。
※ あろうことか、開設年を勘違いして、「2周年」と書いていました。正しくは1周年です。お詫びして訂正します。なお、1年以上前の日付がある投稿は、ツイッターで書いていたものを遡ってここに投稿し直したものです。2018年10月8日
道の草や木やさまざまな物々とこのように関わっている者もいるのだと思っていただけましたらしあわせです。また、道の草や木やさまざまな物々がこのように「暮らして」いることを知っていただけましたら本望です。
海外でこのブログを読んでいる方々もいらっしゃるようで、とてもありがたいことです。海外の方々の多くはおそらく自動翻訳をご使用になられていることと思います。自動翻訳を使用した場合、主語が変わってしまったり(たとえば私が木になったり)、形容詞が他の名詞に係ってしまったり、同一の固有名詞が異なって訳されたりする現象が起きるようです。もともとの日本語文とは意味が変わっている可能性があることをご理解ください。
もうしばらく「道の記」を書いていきたいと思っています。ときどき読んでいただけたらうれしく思います。
※ あろうことか、開設年を勘違いして、「2周年」と書いていました。正しくは1周年です。お詫びして訂正します。なお、1年以上前の日付がある投稿は、ツイッターで書いていたものを遡ってここに投稿し直したものです。2018年10月8日
道の記
たまにしか通らない道に面した駐車場の柿の木。以前にだいぶ強い剪定を受けたが、葉が茂って木の形が戻ってきた。夏をもういちど振り返っているかのような空に、その緑をいのちの旗印のようにして立っていた。
道の記
排水溝にジュズダマが生えていた場所はその一帯の工事であとかたもなくなっていた。
マンションショールームになったアキノノゲシの空き地の場所に差し掛かった。やはり目でアキノノゲシを探してしまう。どこの隅にもまったく見当たらなかった。道路際でアキノエノコログサが少し小さめの姿で穂を垂れていた。
山のふもと側から山を越していく雲を見た。この暑さを目のあたりにした気がした。
道の記
小さな道路の白線の上で、イチモンジセセリ(蝶)が2羽とまって寄り合っていた。近くで見ていたら車がやってきて、私が立ち退いてもその場を徐行して通っていった。イチモンジセセリに、車に気をつけてと言って私もその場を立ち去った。
帰りに通ったときにはイチモンジセセリはいなくなっていたので、だいじょうぶだったのだろう。
オヒシバの出ていた道路脇にオヒシバが復活してしばらく経った。そのそばにも電柱があるので、オヒシバ電柱と呼ぶのがよいかもしれないと思い始めた。近くにイヌマキの実が落ちていた。
倒れて横たえられたままになっているチャンチンの幹周りを、イノコヅチが囲んでいた。そのチャンチンがいた植え枡にはいまは彼岸花が咲いていた。彼岸花は花の盛りを過ぎた様子だった。地面からたくさんの小さな葉が芽生えていた。となりで、買い物途中らしきご婦人方が楽しそうな話をなさっていた。
2018年10月6日
道の記
何にも使われていない土地がたくさんある場所を歩いた。多くの区画では芝が植えられていたが、木が生い茂っている区画もあった。セイバンモロコシやタチスズメノヒエなど背の高い草が優占している区画もあった。その隅で、けっこう高いアキノノゲシが1株、ぽつんと花を咲かせていた。
高架橋の下ががらんとした砂場のようになっていて、ジャングルジムのような遊具と、鉄棒とがぽつんとあった。そことは違うところから、少し大人びたこどもさんの声がしていた。通勤電車が高架橋の下をくぐって走り去っていった。
団地の裏が、どこまで続いているか見えない長い直線の遊歩道になっていた。緑はいくらか放置気味に見えた。ここを選んで通っている感じの人とときどきすれ違った。この町ではほかにあまり見ないコゴメガヤツリがこの道の時の深さを証していた。
広い公園。さっき遠くをどなたかが歩いていったきり、誰も人がいなくなった。いろいろな木々が高くそびえて茂る中で、モミジバスズカケノキがどれも伐られていた。そのかわり、ひこばえがよく伸びて株立ちになっていた。この形で生きていくように命じられたように見えた。命じたほうの思いもあったことだろう。モミジバスズカケノキもほかの木々たちと同じく元気に午後の陽を浴びていた。もう1人どなたか公園にやってきた。
道の記
教えていただいた崖の階段を下りると、大きなクスノキが斜面にたくさんそびえていた。その向こうにマンションのような建物が見える。林を残しながら建てたもののようだ。歩き去りながら見ているとその一帯はだんだんと小さな山の姿に変わっていった。
つくつくぼうしの声がした。ああまだつくつくぼうしがいたんだ、どこだろう、と見上げて探したら、グラウンドのネットにとまっていた。私に気付いて一度鳴き止んだが、止めている暇はないと思ったか、すぐにまた鳴き始めた。ひととおり鳴き終えると、さっと向こうの木のほうへ飛んでいった。
さっきの公園は子どもとお母さんが遊んでいたが、こんどの公園は人が誰もいない。こちらのほうが草が茂っている。チチコグサ、イヌクグ、少し落ち着いた感じの草景色。スズメノヒエを見つけた。ああここにいたのか、と思った。つやつやした小穂が並んでいた。ここの草たちがこれからも変わらずに暮らしていってほしいと思った。
帰りにもその公園の横を通った。公園の横は花壇だった。マリーゴールドの花があざやかに並んでいた。
2018年9月30日
道の記(箱崎)
まもなく閉鎖される大学キャンパスを訪ねた。解体工事の方々や学生の方々のほかに、少しお歳の方の姿をちらちら見かけた。古い木々が残っている一帯にツルボがたくさん咲いていた。キャンパスの外では見かけない。残されてほしいと思った。花の穂が風にふわっと揺れた。
私がいつも通っていた廊下の窓から見えていた、大きな木のところへ行った。完全に枯れていて、治療のためだったのか枝もかなり落とされていて、樹種はわからなかった。樹皮に触れると熱かった。この暑さや寒さをずっと耐えていたのだと思った。高い所に残された枝の先に、とんぼがとまっていた。
火事の現場一帯は立入禁止のテープが貼られたままになっていた。その立入禁止範囲の外の一所に、手向け花と缶の飲み物がたくさん置かれていた。テープに囲まれた中に噴水の池があり、現役の学生らしき若い方々がやってきて、テープの外から、亀はどうしただろうと池のほうを見ておられた。
建物の屋上からよくまわりの景色を眺めていた。思えばそういうときはたいていひとりだった。建物の端から真下の桜の花姿を見下ろしたりもした。きょうその桜を下から見上げて、はじめてはっきりと悲しさを感じた。桜はいつもどおりの秋を迎えていた。
***
その木々草々をもういちど訪ねて挨拶をした。別れといってもひとときのことのような気がした。
道の記
以前、ある町の桜を訪ねてたびたび通っていた。通い始めた頃のある日、犬の散歩をなさっていた高齢の女性の方に出会った。すぐ近くにお住まいで、その後も花の季節など私が桜を訪ねたときに何年も続けてお会いできていたが、しばらく前にお元気のないご様子をなさっていて、それからお目にかかることがなかった。きょう桜のところまで行ったら、その方のお宅が取り壊し工事の最中だった。まわり数軒がすでになくなっていて、何か新しい建物が建ちそうな様子だった。
桜の下のベンチには新しい人が腰掛けてスマートフォンか何かを操作しておられた。
2018年9月28日
道の記
クワクサが石塀の下に並んでいた。私が住む町ではクワクサをあまり見ないが、この町はクワクサ人口が多いようだ。うれしくなって写真を撮った。クワクサは終始しずかにしていた。
町は祭りの日だった。演舞台のまわりは人と屋台とでにぎわっていた。広場の隅でこどもたちがエノコログサやメヒシバとじゃれあっていた。
その町を訪ねたのはたぶん10年ぶりぐらい。以前立ち寄った場所に行ってみた。清水が流れる水路のそばが遊歩道になっていて、そのところどころに河童の像がいる。河童はそれぞれ思い思いの格好でそのときを楽しんでいた。祭りから帰ってくるこどもたちとすれ違い、これから祭りへ向かうこどもたちが向こう岸の道を駆けていった。
* * *
水路の辺の古いお宅が取り壊されている途中だった。まだ形が残っている裏手にまわると、土壁が半ば崩れて穴が開いていた。その壁を蔦が昇っていた。いろいろ思いながらその場を後にして水路の橋に差し掛かると、その家の敷地の枇杷の木が枝を水路へと迫り出していた。
雨になったが、めったに来ない町にせっかく来たので隣りの駅まで歩くことにした。道は長かった。なにか食べておけばよかった。日暮れも近づき、帰りはその隣り駅から列車に乗ろうと思った。小さな駅はご近所の方が管理している様子だったがもう窓口のカーテンが閉まっていた。時刻表を見ると私が思っていた時刻に列車がなく、1時間ほど間が空いていた。これはだめだ、と声が出た。窓口のカーテンの向こうに灯りが点いているのにその後で気付いた。
帰り道も長かった。向こうのほうだけ雲が薄くなったようで、地平線の上が赤く染まっていた。
* * *
その町へ通う最後の日に、道を変えて川沿いを歩いた。大水のときには恐ろしかったことだろうが、朝の小川は美しかった。曲がらなければいけない角を忘れて1つ先まで歩いてしまった。
初日に来たときに、駅前の道沿いで大きなクスノキを見かけた。むかしながらの工場の敷地ぎりぎりに立っている。その景色に見覚えがあって、ああこの町に自分はむかしたしかに来たのだと思ったのだった。最終日の空はこれまでになく晴れていて、クスノキもいっそうりんと立っていた。あいさつをして駅へ向かった。
2018年9月27日
道の記
遠くに山が見えるほうの大くすのきの林だった場所では、ボタンクサギの花が少しだけ残っていた。香りを嗅いだ。切り開かれた丘はビニルシートで覆われていた。くすのきの香りはしなかった。
交差点のケイトウのそばに白い彼岸花が咲いていた。モデルルームの看板を掲げた人が手元のスマートフォンか何かを操作していた。
ときどき通る道沿いのお家の前のカンナが、咲いているのに草刈りに遭ったようで倒れ気味になっていた。花はだいじょうぶそうに見えたが、もうしばらく咲いていてくれるとうれしい。
クサギのトンネルは花が少なくなってきた。落ちている花を拾って香りを嗅ごうかと思ったが、大くすのきの林のボタンクサギを思い出して、ここの香りを嗅ぐのは今日はやめた。
ラベル:
カンナ,
クサギ,
クサギのトンネル,
ケイトウ,
ボタンクサギ,
モデルルーム案内の人,
宅地開発中のくすのき林
道の記
桜の伐り株のひこばえはしばらく前にまた、草刈りとあわせて切られたのだけれど、1つだけ芽が出てきた。
伐られてじき5年になる。伐り株に期すところがあるかどうかわからないが、その1つの芽が、期すところのあらわれというより期すところそのものだと感じる。
道の記
列車に乗っていて、雨の中、畑が広がる中の1本道を傘をさして向こうからどなたか歩いているのが見えた。むかしの水墨画かなにかでそのような景色を見た気がした。ほどなく、立ち並ぶキバナコスモスが車窓に現れ、そのそばで1羽のカラスが休んでいるみたいにして地面にいるのが見えた。
着いた駅では雨は大降りだった。古くからのまちを歩くと、家々の前にたくさんの鉢植えが並んでいた。鉢から出ているのではないハゼランも大きく育っていた。雨のためか、少し傾げていた。
2018年9月22日
2018年9月13日
道の記
新聞記事で読んだ、街路樹ケヤキの伐採工事が始まったという場所を訪ねた。すでにいくつかの木が伐り株になっていて、残る木々には赤い紐が巻いてあった。伐り株の年輪は20数本のように見えた。切り口は少し前までの雨のためもあってか、濡れていた。セイヨウジュウニヒトエのように見える草の葉が伐り株をかくまうように囲んでいた。
街路花壇も撤去されるらしい。花壇には種類がわからないいろいろな花がまばらな感じで植えてあった。リコリスがそろそろ咲き始めそうだった。
残るケヤキを見ながら歩いていくと、1本のケヤキから強く呼び止められたような気がした。ことばではない。見上げると、そう大きな木ではないけれど、箒よりはもっと枝を広げた感じの枝振りで、何か私を抱きとめようとするような、ずしんとした力を感じた。少しのあいだ立ち止まってその力といっしょにいた。ケヤキはそれ以上何も付け加えなかった。
道行く人が誰か何か言うわけでもなく、木々も草花もそこにじっとしていた。思えばいつでも、彼ら道の草たち木たちにはただ待つことだけが待っていた。
また来るよ、と、来るつもりをまだ決めていなかったのに口に出た。
ラベル:
ケヤキ,
セイヨウジュウニヒトエ,
リコリス,
花壇の花
2018年9月5日
2018年9月2日
道の記
林に囲まれた旧家の跡地は新しい建物の建築工事が始まっていた。泥の地面にアゲハチョウが降りてきて水を飲もうとしている様子だったが、飲めないのか、ひとところに留まらずにあちこちを渡っていた。
国際団体さんの寄付のお願いに応えられずにその場を通り過ぎて、花がたくさん植えてあるポケットパークで信号を待った。後ろを向いて見上げたら、さるすべりの花が深い青空にあざやかだった。人通りが途切れて団体の方が1人、ひと休みされる様子でこちらへやってきた。
ラベル:
アゲハチョウ,
サルスベリ,
ポケットパーク,
林に囲まれた家の跡地
2018年8月31日
道の記
以前は歩道に大きく育ったケヤキが木陰を作っている緑の道路だったが、あるときケヤキが伐採された。そのスペースで何かまちづくり的なことをするのだと言われていた。そのあと道路が陥没したのだった。ひさしぶりにその道を歩いたら、植え枡が出来ていて細長く仕立てられたケヤキが植えてあった。陰は作れそうにないけれど青い実をつけていた。
2018年8月29日
道の記
ホリホックが切られて丈が低くなっていた。こんどはケイトウが花の用意をしていた。ホリホック今年も花を見せてくれてありがとう。ケイトウ今年もよろしく。
稲穂の香りがした。昨年この香りがしていた頃は自分にはたいへんな時期だった。1年が経って、今年もいくらかたいへんだったけれどもなんとか乗り越えられそうだと感じた。稲穂はすでに色づいていた。
遠くに山が見えるほうの大クスノキ林だった場所は、このまえ横を通ったときからさらに丘が削られていた。ボタンクサギの花は終わりつつあった。横を歩いていて一瞬だけ1か所で、樟の香りがかすかにした。あいさつをもらったと思った。
ラベル:
イネ,
ケイトウ,
ボタンクサギ,
ホリホック,
宅地開発中のくすのき林
道の記
むかしよく歩いていた道の、アレチハナガサが出ていたあたりからだいぶ手前の場所で、アレチハナガサの低い株を見つけた。歩道の車道寄りに、アレチハナガサとわからない感じでひっそりといた。あの場所にいたアレチハナガサと関係があるだろうかとちらっと考えたけれど、こちらはこちらで暮らしているのだろう。
この道を通ることもさらに少なくなりそうだ。むかし自分のクリスマスツリーだと思ってヨモギを見ていた駐車場は、変わらずヨモギが出ていた。どんどん姿を変えてきた街だけれど、私がここを通らなくなってもヨモギはきっと代替わりしながら暮らしていくだろう。そう思えた。
ラベル:
アレチハナガサ,
むかしよく歩いた道,
ヨモギ,
駐車場のアレチハナガサ
2018年8月25日
道の記
蝉を拾い上げるのはその日3度目だった。最初は駅のホームの点字ブロックの上にいた。手に掴まらせたものの近くに緑がなく、駅を出て木々を探しているうちに自分から飛び立って行った。その次は歩道の上だった。蝉はもう乾いていた。すぐ近くに街路樹が立っていたがそのふもとは裸の地面だった。暑そうだったがそこに安置した。3度目は、歩道の排水溝の網に挟まっていた。自分から入れるような隙間ではなく、力で押し込まれたようでもあった。そこから取り上げて近くの草の茂みに移した。
そのようすを横で御婦人がご覧になっていたようで、声を掛けてこられた。その方は、私も虫を見つけたらそうしている、とおっしゃった。中にはわざわざ踏んでいったりする人もいるけれど、あなたが蝉を移してくれてうれしい、そうおっしゃってくださった。私からはあまり言葉が出てこず、失礼してしまった。
街路樹のクロガネモチがいた植え枡は、かわりにアキノエノコログサとオヒシバが小さな緑をつくっていた。一帯の工事は止まっているように見えた。
2018年8月16日
道の記
クサギのトンネルでは花が咲いていた。香りで気が付いた。
そのトンネルを抜けたところの斜面でツワブキが咲いていた。綿毛になっている花もあり、しばらく続けて咲いたのだろう。そうこうして見ていると、斜面をすうっとハンミョウが降りてきた。
ビルの前のやや傾いていたケヤキがいつのまにか他の木に植え替えられていた。木の植え枡にはたくさんの草が茂っていて、だいぶ前に植え替えられたのだろう。よく通る道なのに自分がそれに気付かなかったことが残念だった。新しい木は種類がわからない。私にはまだ以前の木の景色が見えるようだった。
2018年8月10日
道の記
昔、春の浅い頃、木を見上げながら、欅の細枝が好きというつぶやきを聞いた。十何年ぶりにその木に近寄って見上げた。榎の木だった。解き放たれた気がした。
道の先に、シャボン玉を吹きながら歩いている人が見えた。シャボン玉がここまで流れてくる。同じ方向へ歩いていてその人はときどき立ち止まってシャボン玉を吹くのだけれども私は追いつけず、だんだんとその人が遠くなり、シャボン玉もここまで届かなくなった。その人は突き当たりを右へ曲がっていった。私はいちど立ち止まって左へ曲がった。
大きなショッピングモールが立ち並ぶ郊外型道路の真似をしようとしている昔からの道路。信号待ちをしていたら、横のほうのアキノエノコログサの茂みにすずめが一羽とりついて穂を引き下ろしていた。その様子を見ながら歩き出そうとしたら、足元にエノコログサが小さく生えていた。車が止まって待っていた。
この景色は私が死んだ後も残っていそうだと思いながら、都市高速の大きな高架の下を歩いた。川を見下ろして比較的大きなセンダンの木が生えている。そのセンダンの木までヨモギやエノコログサが立ち並んでいて、その手前に若いセンダンの木が小振りに茂っていた。夕日は見えなくなっていた。
2018年8月5日
道の記
街路樹いちょうの伐り株の場所は、いちょうのひこばえと立ち並んでいたオオアレチノギクが立ち姿のまま枯れていた。いちょうのひこばえもしおれていた。その横を車がぎらぎらと走っていった。
大くすのき林だった場所では残っていたくすのきの伐り株のひとつが掘り出されて土むき出しの斜面に置かれていた。ひこばえがまだあおあおとしていた。
帰りにもその横を通った。飛行機雲が短くちぎれて夕焼け雲になっていた。
道の記
ビルの谷間に山のように育ったヨウシュヤマゴボウを見つけた。剪定の跡があった。
街路樹が並ぶ道路の植え枡に1か所夾竹桃が植えてあるが、そこから少し離れた花壇の下から夾竹桃の若い枝が伸び出ていた。
ひまわりが踏み倒されたと聞いたひまわり畑を訪ねた。倒れたひまわりはすでに撤去されていた。根が抜かれてぼこぼこになっている地面を蟻や小さな黒い虫がいそがしく這っていた。残ったひまわりは夕日にうなだれて種子を育てていた。
取り壊されつつある建物の工事防音幕に、以前からそこにいたキカラスウリが登っていた。白い花のいくつかはちょうど咲いたばかりに見えた。夜間灯がその花を向こうから照らしていた。
2018年8月3日
道の記
セイヨウタンポポ電柱のネズミムギは緑味を残していた最後の茎も色褪せていた。
大通り沿いの伐られた桜の根から出ている枝は変わらず茂っていた。イノコヅチも元気にしていた。
ランタナの電柱は緑のものはいなかった。ねこじゃらし電柱も、以前自分が置いていた抜かれたねこじゃらしがそのまま横たわっているだけだった。
カヤツリグサの仲間の草をしゃがんで見て立ち上がってくらくらっとした。夕方の空は薄く煙って、遠くの山には紫色の雨が降っているように見えた。
2018年7月30日
道の記
アキノノゲシの空き地のところまでやってきて、そういえば工事をしていたのだったと思い出した。現在はマンションショールームになっている。種類がわからなかった小さな花も出ていたのだったが、そのあたりはショールームの中になっていた。歩道との隙間にアキノエノコログサが少しだけ居着いていた。
1号札のいちょう若木は葉の端から茶色になっていた。ほかのいちょうは緑のまま。今年の夏もそうやって越えていくのだろう。
比較的新しく更地になったように見える空き地の歩道際で、いろいろの草と同じほどの丈のさるすべりが花を咲かせていた。
2018年7月28日
道の記
この春に公園再整備工事は終わったはずだが、昨年秋を最後にその公園にまったく行っていなかった。もとは大きな木々があった公園だったが、トウカエデ1本を残して細い新樹がところどころ植えてある、広く見渡しのよい公園になっていた。誰もいなかった。とても暑かった。
以前ポプラがそびえていたあたりはもとは斜面だったが、高さが変えられて歩道になっていた。ポプラが地中から出ているのではないかとほんのわずかに思っていたのだけれど、草刈りが入ったばかりのようで、新しく植えてあるもの以外には何も伸びていなかった。ポプラの木の香りがかすかにするような気がしたが、植え込みに敷いてある木材チップの香りかもしれなかった。
残されたトウカエデもだいぶ枝を落とされたように見えた。以前の公園には大きなクスノキがまんなかに鎮座していて、こどもたちがその木陰で遊んでいた。あのときの景色のほうが、いまの無人の光景よりも自分の近くにあるように思えた。
ラベル:
クスノキ,
トウカエデ,
ポプラ,
再整備公園のポプラの木
2018年7月25日
2018年7月24日
道の記
たまに訪ねる、むかし風の欄干の橋を訪ねた。来てみてそういえば欄干が最近新しくなったのだったと思い出した。橋のたもとの大きなセンダンの木も伐られてだいぶ経つ。低い樹冠が出来ていた。近くに寄ると樹冠にキカラスウリやヤブガラシが少し絡み付いていた。どちらも花が咲いていた。
十何年ぶりかに通る小道。強い西日に向かって歩いていてほとんど景色がわからない。林だったあたりに新しい家が建っていたが、林はその先に残っていた。夏休みの格好のこどもたちが追い越していった。
2018年7月21日
道の記(久留米)
久留米の筑後川を訪ねた。昨年の水害の後も行ったけれど今年も河川敷が水没したようで、粒子の細かい土が積もり、竹や材木やあまり大きくない生木が流れのよどみだったらしき場所に溜まっていた。
以前ときどき河川敷の公園に寄り、けやきの下で少し時間を過ごしていた。けやきはその後調子が悪くなっていたが、ひさしぶりに行ってみたら葉が出ていなかった。根元に川草が土塊ごと絡んで枯れていた。その土から何かの草の双葉と何かの草の一枚子葉が芽生えていた。
河川敷の遊歩道を歩いていると、手のひらを広げたぐらいの大きさの丸い物が乾いた泥の路面にあった。そっとつつくとゴムボールだった。青地で土にまみれて少し空気が抜けていた。どこのこどもさんと遊んでいたボールだろう。ボールはそれ以上何も語らなかった。そこにあったままにした。
水害の前に薬品流入か何かで魚が死んだと聞いた池町川も訪ねた。まちは夜市でにぎわっていた。そのまちのあまりにぎやかではない側を池町川は流れる。川をのぞきながら歩いた。ハヤがちらっと見えた。その先に鯉がいた。魚はだいぶ少ない印象を受けた。川を見ながら歩く大人の方やこどもさんを見かけた。
公園にある昭和28年水害の碑も訪ねた。近くの水場ではこどもたちの歓声がしていた。やがて日が傾いて公園が静かになった。いろいろな種類の雲がいかにも夏色な空にそれぞれに陣取っていた。碑はいつもと変わらずに、そのときの水位の高さを自分の丈で示しながら空にそびえていた。
2018年7月19日
道の記
開発中の大くすのき林の場所は多くの重機が出て丘の掘削が進められていた。以前手前に見えていたくすのきの伐り株のあたりはすでに平らになっていた。丘の最上部だけが残っていてそこに伐り株や草がわずかに見えた。
歩道との境に、以前大きく茂っていたボタンクサギが小さくなって花を咲かせていた。離れたところにくすのきだと思う枝や根が少し集められていた。そこからなのかわからなかったがかすかに、くすのきの香りがした。呼ばれたのだと思った。
田んぼで稲が風にさやさや鳴っていた。それを聞いて先へ歩くと、隣のお家の前になぜか稲が1本、根から抜かれて横たわっていて、そのお家の車がその稲を踏んで出かけていった。抜かれた理由があったのかもしれないがと思いつつ、田んぼの畦に稲を安置した。
行きも帰りも行く手の信号が次々赤になるので、道のあちら側から何かが呼んでいるのか、と思い、道の反対側へ渡った。何か見られるのだろうかと思いながら歩道を歩き出してすぐ、路面にアゲハを見つけた。乾いて路面に張り付いていた。ていねいに剥がして植え込みの下へ移した。
(この日はほかにも歩道を横断中の芋虫や、乾いたミミズ、そして最後にはアブラゼミを場所移しした。アブラゼミは生きていて、近くの公園の桜に移した)
帰りにも大くすのき林の横を通った。ボタンクサギとアレチハナガサとヤナギハナガサの花々が同じ色合いの夕空に並んでいた。くすのきの香りはもうしなかった。
2018年7月15日
道の記
オフィス街にあった公園が再整備されたという話を聞いていた。以前通ったときはたくさんの木が茂っていて、街の中の森だった。たまたま近くまで来たので、再整備後を見てみようと思い、足を向けた。がらんとしたグラウンド状の空間になっていた。どうも観光バスの駐車場みたいなものになったらしい。その周囲に、ぱらぱらと若い木々が植えられ、片隅に以前からの木らしきケヤキが樹冠を広げていた。
グラウンドは陽に照らしつけられていた。アレチノギクやチチコグサモドキがぽつぽつと生えていた。
草を見始めた道をひさしぶりに歩いた。当時のなごりはほんとうに少なくなった。ツイッターのアイコンに使っている広い空き地の草を写した写真の場所は、その後しばらく空き地が続き、アレチハナガサが咲いていたが、やがて駐車場になり、いまはマンションが建っている。写真に写っている草も、アレチハナガサも、その子孫は近くに見当たらない。
ちょうどその場所でむかし、写真を撮っていて通りがかりのご高齢の方から声を掛けていただいた。楽しく話をしてくださり、パンまでいただいた。その方とはそこで二三度お会いした。そこに長く立ち止まっていたらいつかまたお目にかかれるのではとも思うが、いまでは立ち止まっていたら通報されそうな場所になってしまった。
ほんのすこし立ち止まって、アイコン写真のように空を見上げた。マンションの黒っぽい壁が一面に広がっていた。
道の記
砂利敷の広い空き地にヒメヒオウギズイセンがぽつんと咲いていた。
この前取り壊された旧家の跡地の横を通りかかったとき、その敷地の向こうのほうに猫が入ってきたのが見えた。この前はここにカラスがいたのだった。猫はここで何をするのだろうと思っていたら、すぐに腹を上に向けてごろごろと寝転がり始めた。
公園の入口で蝉の幼虫が踏まれたらしく路面で動かなくなっていた。そのそばにも同じように動かない幼虫がいた。近くに、木の幹を見ているこどもさんとお母さんの姿が見えた。蝉の幼虫を探しているのではと思った。路面の幼虫を植え込みの茂みの下に移してさっと立ち去った。
繁華街の狭い通りはいつものように人が行き交っていた。あかあかと店の照明や看板が光る中、小さな植え込みで丈の低いサルスベリがほの赤く咲いていた。
ラベル:
サルスベリ,
セミの幼虫,
ヒメヒオウギズイセン,
猫
2018年7月14日
道の記
学校の隅に大きな桐の木が立っていた。そこから少し離れた道のそばに、どこから出ているのかよくわからない若い桐の木が張り出していた。そこから見える学校の桐の木と呼び交っているようだった。
この雲はうろこ雲だろうかそれともひつじ雲だろうか…と思いながら歩いていて、作業姿の方々が塀に絵を描いているところに行き合わせた。こどもたちがいろいろな乗り物に乗っている絵。幼稚園の塀だった。園のこどもたちがきょう帰るとき、わあ、と声を上げて通っていくだろうなと思った。
あちこちでオオアレチノギクやセイタカアワダチソウなどの草たちがしおれていた。しばらく前から街路樹のいちょうの伐採が進められている道で、いちょうの伐り株の脇から伸び出たひこばえとそのまわりのオオアレチノギクが、同じように丸まっていっしょに雨を待っていた。
ラベル:
イチョウ,
うろこ雲,
オオアレチノギク,
キリ,
セイタカアワダチソウ,
ひつじ雲,
街路樹いちょう伐採中の道,
塀の絵
2018年7月13日
道の記
セイヨウタンポポがいた電柱のふもとには、いまは春の草が枯れて残っているけれども新しい草は出てきていない。少し離れた位置にしばらく前からネズミムギが1株いて、穂をいくつか立ち上げている。その穂も少し枯れ色が見えてきた。
2018年7月10日
道の記
ルリタテハが路面にとまっていたので写真に撮った。広い歩道も多少の人通りがあり、人が来るたびに逃げるけれど、戻ってくる。何度目かのときに戻ってこなかった。あたりを見回したら自分の肩にとまっていた。
その先の路面に泥が流れた跡があった。酸えた匂いがした。種類がわからない蝶の翅が落ちていた。
※ 蝶の翅を写真に撮って後で図鑑と照らし合わせたところ、ゴマダラチョウの右側の後翅のようだった。
空に夕焼け光線の赤い跡があった。見つけてすぐに見えなくなった。
道の脇にキツネノマゴの幼苗を見つけた。本葉が一対出ていた。花が咲くのはずいぶん先のことのようにいまは思える。
2018年7月9日
道の記
長かった雨が終わったと思った。歩くとあたりをまだ細かい雨粒が満たしていた。
中心街の交差点で信号を待っているあいだ、横にある花壇とその下を見ていた。花壇と路面との隙間にクワクサのような草やカタバミなどが出ていたが、その中のいくらかが引き抜かれて散らばっていた。背後で何人も信号を待っている様子で、さすがにここで屈み込むのはおかしいかと思ったが、気が付くと屈み込んで、抜かれた草を拾っていた。もともとその草たちが生えていただろう隙間のところにひとつひとつ寄せた。花壇の中にもクワクサのような草がいて、小さな花を付けていた。
また降り出した雨のしぶきの下で、カンサイタンポポが花を開いていた。春の夢を見ているようだった。
そして雨が終わった。
2018年7月4日
2018年7月3日
道の記
クサギのトンネルではつぼみらしきものが付き始めていた。咲き出しているかどうかまでは高くてわからなかった。
これから風が強くなるという。2つ信号のオニタビラコはこの前と同じ方向に揃って傾いていた。
ラベル:
2つ信号のオニタビラコ,
オニタビラコ,
クサギ,
クサギのトンネル
2018年7月1日
道の記
いろいろとよくしてくださる方が、道の脇のざくろの木が伐られたのを悲しんでおられた。もう何年も前のことになる。その後、伐り株からひこばえが何度か出ては伐られ、2、3年前からひこばえも出なくなった。その後、もとの木の近くにざくろの芽が出ているのを見つけた。その芽もときどき伐られるのだが、いまのところ小さいながらも育っている。きょう、そのいくらか近くで、大人の背丈ほどに育ったざくろの木を見つけた。実が実りつつあった。
その道から仰ぐと入道雲が出ていた。あまり遠くはないように見えた。
道の記
水が通ってもいないし溜まってもいない側溝のタイル隙間からいろいろな草が出ている。水はだいじょうぶなのだろうか、道路の隙間に生えている草と同じことだろうかと思いながら歩いていたのだが、先日、雨の後で側溝に水が溜まっているのを見た。草たちは浅い水を従えていた。水を得た草、というのもあるのだと思った。
2018年6月30日
道の記
たまたま腰掛けたベンチの下に花が咲いていた。さっきまで雨だったためか半開きだったが、写真に撮って立ち去った。そうしたら、その様子を見ていたのか男の子がベンチのところにやってきて下を覗いて、それからおかあさんと妹さんを呼んで一緒に花を見ていた。アカバナユウゲショウっていう花ですよと教えてさしあげた。
また雨が降り出しそうな中、草を見ている私の近くで、カメラを持ったこどもさんがしゃがみこんで地面の近くをしきりに写していた。シロツメクサが濡れて咲き、カンサイタンポポがこの時期ながら花を用意して天気の様子をうかがっていた。
ラベル:
アカバナユウゲショウ,
カンサイタンポポ,
シロツメクサ,
ベンチ
2018年6月27日
道の記
何年か前に、道のガードレール脇にセンダンの木の伐り株を見つけた。ひこばえが出ていてわかったのだった。その後、ひこばえも伐られたけれど、その後にまたひこばえが出ていたのも見た。しばらくぶりにその道を通った。ひこばえはたぶんあの後にも何度か伐られたのだろう。小さく葉を茂らせていた。
2018年6月25日
道の記
和風住宅跡地の木々は伐採されていた。樫の木のひこばえが少し残っていた。何かの園芸植物の大きな葉が斜めに茂っていた。夾竹桃の木は姿がまったくなくなっていた。敷地の隅のほうの、重機が入りきれなかった様子に見える位置に、あまり大きくない樫の木が1本、まっすぐに立っていた。
中心街の大通りに面した桜が撤去された後にいま桜の枝葉が出ているが、きょう見たらその脇にイノコヅチも出ていた。砂利を入れられた更地の隅で並び合っている。このまま平穏に過ごしてほしい。
2018年6月24日
2018年6月23日
道の記
抜かれて放置されていたねこじゃらしの束を、電柱のふもとに置いた。最初はわずかに土が見えているところに置いて立ち去ったのだが、そこから新しい芽が出てくるのではと気になって、帰りに少しずらして置き直した。
昨日も少しそうしたのだが、公園の歩道にみみずが出て舗装の上で乾いていたのを、動かして木の根元や土がある位置に移した。きょうはたくさんの数だった。自然は自然のままにしておくべきだ、という声がちらっと心に聞こえてきたけれど、それを言うなら、すでに舗装が自然を逸していたのだった。
舗装の小さな石が剥がれていたのも拾って置き直した。しかし石がちょうどおさまる窪みは見当たらず、縁石がほんの少し舗装の高さから飛び出ている、その脇に置き直した。
石さえも帰る所がなかった。
2018年6月22日
道の記
住宅街の一角のむかしながらの和風住宅が取り壊されていた。まわりの樫の木々が残されていた。立て札によるとマンションが建つという。木々はどうなるだろう。中のほうでは大きな夾竹桃の木があざやかに花を咲かせていた。
2018年6月20日
2018年6月13日
道の記
短い丈のキュウリグサやヒメジョオンが生えていた場所で、今度は短い丈のナズナが咲いているのが見えた。顔を近づけてよく見ると、手が円かった。マメグンバイナズナだった。
ランタナ電柱にはねこじゃらしが葉だけ復活していた。アカカタバミも少しだけ葉が残っていた。
タイル舗装の上でミミズがのたうっていた。鳥がくわえてきたのではないかと思う。このまま人に踏まれてもかわいそうに思い、近くの植え込みの土に移した。ミミズは少し傷を負っていて、なかなかうまく這うことができないように見えたが、積もっている落ち葉のところまで頭がたどり着くと、突然這い方を思い出したようにまっすぐになって、少しずつ落ち葉の下へ潜っていった。
このミミズはこのように何者かにじっと見られていたのは生まれて初めてになるのではないかと、ちらっと思った。
2018年6月10日
道の記
クスノキが伐られた神社に少しひさしぶりに立ち寄ったが、どうも境内が明るい気がするので歩いてみると、大きなクスノキの伐り株があった。前回伐られたクスノキと変わらないぐらいの大きさ。新しく伐られた様子。少し高めの位置で伐ってあり、なぜか、切断面に木の板が打ち付けられて平らにしてあった。板と断面との隙間から薬剤注入の跡が見えた。
その少し先の歩道で、むしられた草が道の真ん中に放置されていた。すぐ隣のアパート駐車場にアイドリングを掛けている車がいたけれど、草を拾い上げて横の土がある所に移した。
町内施設の塀際の草もむしられていた。すみれの葉が散っていた。
道の脇の小さな復活中のクスノキも伐られていた。遠目でわかった。近寄ると、ひこばえを伐られて小さなこぶのような伐り株になっていた。数センチだけ残った枝が1本、緑色をしていた。
街路樹のクロガネモチが伐られている途中だった場所はアスファルトが敷き詰められていた。何もなかったかのようだけれど、そのように舗装されていることがかえって、ここに何かがあったことを示しているとも思った。
2018年6月7日
2018年6月3日
道の記
ランタナの電柱とねこじゃらしの電柱は同じ通りに面している。ランタナ電柱の場所にもねこじゃらしが1本穂を出していた。その隣ではアカカタバミが実を待機させていた。
からん、からんと鐘の音がした。公共施設だが鐘はあっただろうか。鐘にしては軽い音なので、たぶんあの音ではないか。そう思いながら音のほうを見ると、思ったとおりに旗を掲揚するアルミポールが見えた。音が止んだ。
お墓が作ってあった。拳ほどの石がぐるりと並べられていて、それぞれラベンダーとカーネーションに似ている花が手向けられていた。鳩たちが誰かを待っている様子だった。
2018年5月30日
道の記
中心街の大通りに面していた桜が撤去されて今年は花が見られなかった。建物も撤去されて広くがらんとしているその場所の端に、桜の枝が出ていた。大人の腰の高さくらいまで伸びて葉を茂らせていた。桜はもう1度ここで生き始めたいにちがいない。跡地では何かの掘削作業が行われているようすだった。
2018年5月27日
道の記
道の脇の空地に、少しだけ幹を残したクロガネモチの伐り株が2つ、やや無造作な感じで横たえてあった。そのうちのひとつの根元の土に、ムラサキカタバミの株が付いていた。花がひとつ咲いていて、つぼみがひとつあった。
街路樹のクロガネモチはその道の各所で点々と撤去されていた。根も掘り上げられてなくなっていた。撤去された区画のひとつの、その隣のクロガネモチのふもとに、伐り屑がうっすらと積もっていた。
道の記
どちらかというとビジネス街の印象があるこの街に、ずいぶん清楚なお召し物のお嬢さんがと思っていたら、道の少し先で同じ白のガザニアがにこにこ咲いていた。
2つ続けて信号がある道のオニタビラコは、風が同じ方向から吹きがちなのか、きょうは全体が片方へ傾いていた。茎はたくさん立っていた。花もつぼみもたくさんあった。その1メートル四方だけ取ったなら、ちょっとした林のようだった。
小径のその一角だけ緑ゆたかに見えていた。種類がわからない洋物の感じの木々が洋風のお店のファサードを森の中のお店の感じに仕立てていた。お店の入り口の真横で、よく育ったオニタビラコがたくさん花を咲かせていた。
ラベル:
2つ信号のオニタビラコ,
オニタビラコ,
ガザニア
2018年5月26日
道の記
マンションの正面脇にイヌビワの幼木が出ていた。もう少し先の、新しく出来た花壇の脇にもイヌビワがいる。ここはイヌビワ通りだったのだと気付いた。幼木は丈は低いながらも立派な葉を広げていた。
しばらく前に街路樹のクロガネモチが伐られた。そのときは建設工事で車両の出入りの邪魔になるからだったようなのだが、いまそのときの場所の隣で伐採工事が行われていて、それは理由がわからない。クロガネモチが大人の胸の丈ほどで伐られていて、私が通ったときは地中の根を伐っているところだった。
そこに差し掛かる前に見たクロガネモチは、ふもとにエノキの幼木やナガミヒナゲシを従えて、樹冠をやや道路に傾けながらもすこやかに立っていた。
亀が歩いていた。人に踏まれそうに思えたので気を付けるように言うと、私を嫌そうにして、すたすた歩いて近くの茂みにたどりついた。近くの水際でもう一頭の亀が関係なさげに陽を浴びていた。
道の記
あじさいの小径にあじさいが咲き始めた。ペロペロネもにぎやかに咲いていた。
セイヨウタンポポ電柱のそばに出ていたイヌムギが枯れてきた。そのとなりにネズミムギが出ているのに気が付いた。タチイヌノフグリは少し色褪せているがよく伸びている。
2018年5月24日
2018年5月22日
道の記
飲食店跡地は更地になっていた。木のちぎれ根が地面から少し出ていた。アスファルト舗装が一部残っていた。その土地の以前を思わせるものはほかに何も見当たらなかった。歩道との境界にヨモギが小さく生えていた。
2018年5月21日
道の記
公園の入り口にハハコグサが咲いて並んでいた。
電柱ねこじゃらしは早くも穂をのぞかせていた。
タイル舗装の隙間から、となりのツメクサとあまり変わらないくらいの丈で、キュウリグサが短く伸びていた。1度刈られたのかもしれない。その少し先で、そのキュウリグサより少しだけ高いほどの丈のヒメジョオンが花を咲かせていた。
大きな飲食店の建物が解体工事を受けている。手前の植え込みでサツキが咲いていた。植え込みはもっとにぎやかだったはずで、そのサツキは植え込みに残されるのかもしれないと思った。敷地の横が見える位置まで来ると、その植え込みも壊されている途中だった。
道の記
縁石を縁取ってツメクサの緑が並木のように続いていた。
工事現場フェンスの地面際に草の絵が印刷されている。その草の絵を仲間のようにして、ノゲシやオッタチカタバミやオニタビラコが生えていた。その上に大きなてんとうむしが描かれていた。
高架の下に以前は駐輪場があった。そこに発泡スチロールの箱を使ったプランターがあって、アロエの仲間だと思う多肉植物が植えられていた。駐輪場が他所へ移転したが、プランターがなぜかそのまま残された。横を通るたびに気にしていたけれど、金網の向こうだったこともあって、何もしなかった。
しばらくそこを通ることがなく、しばらくぶりに通ったときには、そのアロエは枯れていた。アロエはきょうもそのままでそこにいた。
道の記
セイヨウタンポポの電柱下はスズメノカタビラが枯れ、タチイヌノフグリが伸びている。タチイヌノフグリは花を咲かせるよりは付けた実を育てることのほうに力を注いでいるようだった。
ラベル:
スズメノカタビラ,
セイヨウタンポポの電柱,
タチイヌノフグリ
2018年5月9日
道の記
どこかで伐られた木の伐り株や裁断後の幹がいつも放置気味に積んである場所がある。木はおりおり入れ替わるが、いまは輪切りになったイチョウが置いてある。このあいだ通ったら、横倒しになっている伐り株からところどころ葉が出ていた。根が土に埋まっているわけではない。水が吸えているのかどうかわからない。それでも葉はみずみずしい緑だった。
わたしは生きている。その一念が伝わってくるようだった。
道の記
ノアザミが、わたしも花守の1人ですよと言いたげに大きく育って花を咲かせていた。
大くすのきの林だった場所は、地面の一部に穴が掘られ、ところどころブルーシートが掛けられていた。伐り株は道路から3株見え、2つは勢いよく芽を吹き上げ、もう1つは小さなひこばえを生やしていた。
クスダマツメクサをひさしぶりに見た。よく見ているコメツブツメクサよりたしかに花の穂が大きい。その向こうの小さな土手に、ムラサキツメクサ、そしてシロツメクサと花畑が続いていた。どこもたしかに春だった。
道の記
住宅地の中の空き地の一角。そこに、そこそこ大きなソテツの木がいる。何年か前に初めて見て、忘れがたい印象を持った。ふと思い立って、訪ねてみた。
どうしているだろうかと半ば心配しながら行ったのだけれど、ソテツは変わらずにそこにいた。いちばん上の段の新しい葉だけが残されていて、おりおり手が入っているように見えた。ふもとから新芽も広げていた。
その残されて立っている姿が、どこか神々しく感じられた。頭を下げて立ち去った。
2018年5月5日
道の記(五ヶ山・小川内)
五ヶ山、東小河内の神社の木々はダム湖の水に浸かり始めていた。双眼鏡で見ると、桜やモッコクのいちばん下の枝の少し下まで水が来ていた。地面が水没したため、小さな動物が木に登っていないかと思って枝を細かく見てみたが、わからなかった。
そのすぐ近くの水面間際で、つつじが咲いていた。民家の跡なのだろう。その少し上に、なにか薄紅の花が咲いていた。
東小河内の側から東小河内の木々を見ていると、湖面を風が渡るときにさざ波が立って、日光を反射した白い細かな光がまるで吹雪のように木々に押し寄せてくるのが見えた。悲しいほどに明るかった。
道の記
道端の土に差した木の小枝はもうわからなくなっていた。
もう開いていないお店の前のプランターにいろいろな草が出ていたのが、プランターもなくなった。その位置に、なごりのようにノゲシが育っていた。
丁字路のホウキギクは草取りに遭っていた。まわりの草も高い草はなくなっていて、短い丈の草だけが目こぼしされたように残っていた。ホウキギクはおそらく地下では生きているだろうと思うが、すぐに葉が出てくるのかわからない。秋はまだ遠い。
2018年4月30日
道の記
大きな林だった場所はビルになるのだと書いてあった。赤土がうずたかく積まれ、木の根が横倒しになっていた。
電車から見える小さな公園の桜が、長らく大きく枝を張り出していたのだが、最近になって枝が落とされた。公園の近くをたまたま通ったので、落とされてから初めて立ち寄ってみた。桜はところどころの枝がなくなっていたが、じゅうぶん元気にしていた。休日の昼下がりに公園は誰もいず、となりの建物のほうからこどもたちの遊ぶ声が聞こえていた。
広々とした草地が工事されていた公園は、けっきょく芝生と砂地の公園になった。ただ、そのまわりにも草地だった部分があり、そこはそのまま残されていた。キランソウやコナスビがしずかに咲いていた。
道の記
大きな道に面したアパートか社員寮だったような建物が空になっていて、その建物の下にヒルザキツキミソウがたくさん咲いていた。
坂の上が開けているように見えたので上がってみた。小さな公園があった。できたばかりのように見える。木は小さくてまだ陰がない。誰もいない。となりは造成工事の途中だった。一帯が再開発かなにかでフェンスに囲われたり更地になっていたりして、それで開けて見えたのだった。そこに人がふたたび住むようになるというのは、いまの景色からはずいぶん遠いことのように感じられた。
フェンスに開いている窓の向こうに、あまり高くないポプラの木が細々と立っていた。1度伐られてそれからふたたび伸びたようにも見えた。次の建物が建つときにはどうしているだろう。
道の記
春に通っていた公園。再整備工事の際にカンサイタンポポをプランターに移植して土手に再移植した公園。毎年カンサイタンポポがかなりの数咲き、土手やその下でこどもたちが草や虫と遊んでいた場所だった。その土手が杭とロープで囲われていた。カンサイタンポポは咲いてはいたが、草遊びをしているようなこどもはいなかった。ボールがロープを越えて土手を転げ落ちていき、男の子が1人、ロープを越えて土手を駆け下りてボールを取って駆け上がってきた。
その公園に次に行くのは3年ぐらい経ってからにしようと思った。
イヌノフグリをときどき見に行っていた場所、道路の両側に薬が使われた形跡があり、イヌノフグリも何ももうわからないほど枯れていた。フラサバソウがいくらか形を残していた。1株、タツナミソウのように見える草がかろうじて生きていて、その姿が、何かを証言してくれているかのようだった。
2018年4月23日
道の記
坂はウマノアシガタらしき黄色の花に埋め尽くされていた。
開発中のくすのき林は丘の掘削が進んでいた。もう斜面には伐り株はなく、平らになった手前の地面に木の根が山積みになっていた。くすのきの、葉の香りではなく伐られたときの匂いがしていた。斜面の最上部にはちらちらと緑色が見えたが、伐り株のひこばえかどうかは私の目ではわからなかった。置かれた木の根のひとつが、こちらへ向かって大きく曲がりながら伸び出して、途中で切れていた。
その丘の道を降りると、道の片側だけ薬が使われたのか、草がことごとく枯れていた。ただアメリカフウロだけが、葉を紅葉させてわずかに緑味を残して横たわっていた。
何の種類の木かわからないけれど枝の先だけが歩道の路面に落ちていた。まだ初々しかったので、道端の土に差した。覚えておかなければと思う。
道の記
丘の上へと建て並ぶむかしながらの団地の坂道を見上げて、団地に住んだことがないのになにか胸をかきむしられるような懐かしさがわき上がった。私はこの景色のどこにいついたのだろう。
遠い山が霞んで美しいうすみどりをしていた。どこか帰る所をずっと探して歩いている気がしてきた。いや、帰りたい所はこの景色の中だ。この景色をここに立ち止まって座っていつまでも見ていたい。しかし人間社会がそれを許さない。日も暮れてこの景色も変わってしまう。なにか食べたくもなる。私はここにいつまでもいるわけにいかず、また歩き出すしかない。
そしてその先でまた、帰りたかった景色に出会う。立ち止まる。また歩き出す。そうやってきっとずっと歩いているのだろう。
道の記
イヌノフグリがいる場所をいくつか訪ねてまわった。うち1か所の道端では花が咲いていた。他の各所で見るイヌノフグリはもう花の季節が終わりかけている様子だったので、花が見られてうれしかった。
別の場所のイヌノフグリは、昨年この時期は桜蕊に埋もれていたのだったが、今年は草取りが入ったようだった。ひっくり返された土の上に桜蕊が積もっていた。屈んでよく見てみると、ほぼ枯れきった短い草の茎が1本あった。手に取って見るとイヌノフグリの茎だった。種子が入っているさやが割れていた。枯れる前に種子を撒くことができたのだろう。
丁字路のホウキギクは花が咲いていた。それも2つ。冬を越すことができたのだ。強い日差しが、まわりの若い草ともども、ホウキギクを照らし返していた。
2018年4月22日
道の記
神社の伐られたくすのきは、根元の樹皮が剥がれ始めていた。
よく歩いて通りかかる三叉路の木、ベニバナトチノキだなと思っていたが、花のときに通ったのは初めてだった。やっと来ましたね、と言われた気持ちになった。
よく歩いて通る道から丘の上にこんもりした林が見えていたのだが、その林がなくなっていた。そばへ行ってみた。赤土の丘のところどころから木々のちぎれ根が出ていた。種類がよくわからないいろいろな幼木が敷地の端のフェンス際に残っていた。
先日、まちなかに残っていた、森のような林に囲まれていたお家の敷地が空になって建設工事が始まっているのを見た。まちのむかしの風情を垣間見せてくれていた一角だった。敷地の中にきっといろんな木、いろんな草、いろんな生き物がいたことだろう。
フェンスの下のわずかな隙間の地面でアカカタバミが花を咲かせていた。
2018年4月18日
道の記
若い草が出て来ている丁字路の角に、茶色の小さな茎が見えた。近寄って見ると、ホウキギクが枯れているのだった。そういえば去年の秋にここでホウキギクを見た覚えがある。よく見ると、綿毛や綿毛を放った跡のほかに、花弁が白いまま縮まった花があった。冬のたびたび寒かった頃に最後の力で咲いていたのだろうか。いま、春の草に並んで花のままでいる。
そのホウキギクのことを思いながらまたその丁字路に来た。ホウキギクの茎を手に取ると、しなやかだった。生きているかもしれない。そう思ってあらためて見ると、茶色の茎の一端が小さな芽を宿しているようにも見えてきた。また来て見てみようと思う。
道の記
もともと何のお店だったかわからないが古い感じのお店の跡に閉店告知の貼り紙が残っていた。見ようと立ち止まると、横にいた猫が後ずさりし始めた。猫に悪いので立ち去った。猫がお店の後を守っていたような気もした。
公園の山の道で次々と猫たちに話しかけられた。道の最後のほうで出会った猫たちはもうただの通行人などどうでもいいという超然とした風情だった。
2018年4月15日
道の記
少し前、電車を駅のホームで待っていたときに、ちょうど正面のレールのあいだにイヌコハコベらしき草が見えた。ほかの位置には草は生えていず、なんだか待たれていたような気も一瞬した。
その同じ駅のホームで別の位置で電車を待っていたときに、こんどはレールのあいだにイヌコハコベとノゲシが見えた。ああここにもいたんだ、と思って前回のことを思い出した。駅の広場でイベントが行われているらしく、ギターの弾き語りの人の「イマジン」を歌う声が聞こえてきた。
Imagine all the people..、そのpeopleに草は入っているのだろうか。そう思ったとき、イヌコハコベがさっと風に揺れた。
2018年4月14日
道の記
電柱下のイヌムギは引き抜かれていたのだけれど、その1mほど横に小さなイヌムギがいた。丈20cmほどだったか。小さいながら穂を付けていた。
その電柱近くのホトケノザは、1度むしられたのだが茎が1本だけ残っていた。その茎もこのごろは枯れ色になってきたのだけれど、こんど新しい葉が出てきた。
見ている路傍のナガミヒナゲシ、冬場からロゼットを小さく広げていたけれども春になっても生長しない。あまり根を伸ばせないのだろう。この様子だとこのさき大きくならずに短い柄の小さな花を付けるだけになるのではないかと思う。
芝が植え込まれている細い隙間に、スズメノカタビラが芝の仲間みたいな顔つきをして1株生えていた。
そういえば電柱下のスズメノカタビラは少し疲れた様子だった。いまごろは雨で一息ついているのではないかと思う。
ラベル:
イヌムギ,
スズメノカタビラ,
セイヨウタンポポの電柱,
ナガミヒナゲシ,
ホトケノザ
2018年4月11日
道の記
削られた土手のわずかな地面。まだ土手だった一昨年のときたくさん出ていたナガミヒナゲシは、もう出ていなかった。かわりにノゲシが出ていた。土手の端まで歩くと、もとのままの地面が残っている所にナガミヒナゲシが寄り集まったようにして花を咲かせていた。
カラスノエンドウ、フラサバソウ、アメリカフウロ、ヤエムグラ、いろんな草がその一所から競って伸びて広がっていた。
道の記
線路脇の伐られた柿の木はもう根も生きていないのか、芽吹いていない。ちょうどそのあたりに工事のお仕事の方が向こうを向いて立っておられた。
セイヨウタンポポがいた電柱の下は最近はスズメノカタビラやタチイヌノフグリが生えているのだが、このごろイヌムギが大きく伸び出していた。そうしたらイヌムギだけが引き抜かれたようで、なくなっていた。電柱下はイヌムギが出ていなかった頃に戻ったような草景色になった。
2018年4月10日
道の記
しゃがんで草を見ていたら鳩が1羽やってきた。ずいぶん近づいてくる。食べ物はないよと手を広げてみせたら1度ぱっと飛び下がったが、もっと近づいてきて、私の指をつついた。食べ物がないのに手をつついたらいかんよと軽く叱った。そのあとも鳩は私のそばにずっととどまっていた。
鳩は顔に傷があった。ほかの鳩たちが群れていたのだが、その鳩は群れには入っていかなかった。その意味では私も仲間だった。
電柱下のランタナはもう出てくるようには見えなくなった。同じ隙間から、ナガミヒナゲシとかたばみが出てそれぞれに花を咲かせていた。
道の記
東小河内の桜はほぼ満開だった。そのとなりで別の種類の桜のように見える白い花も咲いていた。ダムの水は根元から高さで数メートルはもうないように見えた。
ダム湖の別の場所で、水面から少しだけ出ている枝、おそらくこずえの部分だと思うが、そこに山桜の花が咲いているのが見えた。この数日で水位が急に上がったということはないはずで、水に浸かっていながら咲き始めたのだと思う。
その山桜の少し上のまだ水が来ていない所で山桜が咲いていた。
帰り際になかなか立ち去ることができなかった。いまは駐車場になっている旧工事現場入り口から振り返って桜を見た。手を挙げて振った。桜が大きく揺れた。きょう見ていてそこまで揺れた時間はなかった。私も大きく手を振った。また来ると伝えた。
道の記
五ヶ山へ登ろうとしていたが平地にいる時点で大風で、さらに雨が霰になった。翌日バスの運転手さんが、上では雪だったとおっしゃっていた。
疲れて歩いて帰る途中でハナダイコンの群れに出会った。その花の下にも小さな花が咲いていて、すみれかと思って目を近づけたら、それらも小さなハナダイコンだった。
道の記
大くすのき林の丘はさらに切り開かれていた。手前の大くすのきの伐り株はこちら側の根がむき出しになり、ところどころ削れていた。その伐り株から若葉の枝が勢いよく伸び上がっていた。奥の伐り株には芽は見えず、いつかのときのように、なにかの建造物のように立っていた。
2018年3月31日
道の記
土手のヒメオドリコソウは今年も出ていた。ここでもホトケノザと並んで咲いていた。
むかし通っていた桜を訪ねた。散り始めだったがみごとだった。若い桜の木の下でおかあさんたちが花見をしておられた。若い女性の方々もやってこられた。あのころお会いしていた方々にはこの数年はお目にかかれていないが、この桜をごらんになりながらつつがなくお過ごしのことと信じている。
母校の桜もみごとに咲いていた。キャンパスの移転が迫っていて、花姿を見ることができるのは今年が最後になるのではないかと思う。春休みで学生が少ないキャンパスを花がしずかににぎわわせていた。
2018年3月30日
道の記
中心街の放置されていた植え込みは花が植えられていた。
花壇の下に、なにかトウダイグサの仲間のように見える花の茎が切られたかちぎられたかして落ちていた。花壇にはそれらしき花はなかった。花壇の隅に差してその場を立ち去った。
あまり見ないヒメオドリコソウ、今年もこれまでの場所に出ていた。ホトケノザと並んで咲いていた。
桜並木の下に、手押し車の女性の方がやってこられた。オオシマザクラの下で、鳥がつついて落ちた花をひとつひとつ拾い上げて手押し車の中に入れておられた。
公園の端の桜の伐り株は芯が腐朽して穴があいていたのだったが、そこになにか球根が植えられていた。球根は短い葉を伸ばし始めていた。
2018年3月26日
道の記
お家の横の小さな犬走りに季節おりおりにいろいろなものが植えてある。きょうはハナダイコンがいっぱい咲いていた。そこに差し掛かって小さく手を振ると、ちょうど風が吹いたのか、ハナダイコンもいっせいに揺れた。私に手を振ってくれたと思ってにわかにうれしくなった。私が優勝パレードしていて沿道へ手を振ってハナダイコンが応えてくれたり、ハナダイコンが優勝パレードしていて私が沿道から手を振ったりしている絵を思い浮かべた。
遠く夕日を撮影している人が見えた。飛行機雲はめいめいの方向へ伸びていた。
道の記
宅地になると聞いていたくすのき林だが工事の札には違うことが書いてあった。手前の丘はしだいに削られてきて、すぐ前の斜面に見えていたくすのきの伐り株はまったくなくなった。丘の上に小さな伐り株があるようにも見えるが、よくわからない。遠くの山はきょうは霞んでかすかに見えるだけだった。
その山のほうに向かって歩きながら、なにかよくわからないせつない心持ちがずっとしていた。あたりにただよう花の香りのせいかもしれず、その花の香りと結びついたむかしの思い出のせいかもしれず、その山のふもとに結びついたもっとむかしの思い出のせいかもしれない。山まで歩いてもその答えにはならなさそうだった。
道の記
高熱を出し、ひさしぶりに車で送られるという体験をした。いつだったかの夏に歩いた道、街路樹の根元のすみれ、大通りに出る手前の草むら、そういえばそこのお家の道側は小さな畑だった…、と、見ていて涙が出てきた。今度は歩いてここを通ろうと思った。
2018年3月14日
道の記
旧い建物が解体されてねこじゃらし畑になり、そのあとマンションになった土地。敷地の隅に残っていたヒメウズが今年は出ていなかった。植え込みの端にカタバミの葉が見えていた。
電柱ランタナの伐り株は動きがない。その横から、ナガミヒナゲシのロゼットとアカカタバミが出ていた。
早めに咲くソメイヨシノの木は、つぼみが出ていたがまだ花の柄があまり伸びていなかった。それでもこの暖かさなので、明日明後日にも咲き始めておかしくない。その咲き始めには立ち会えなさそうだ。
数日前にはじめて水星を見た。日没後の西の低い空、金星がいくらか明るく輝いているその右上に、金星よりはやや暗く輝いている。きょう公園で双眼鏡で見てみた。金星と同じ金色に見えた。
公園のケヤキの樹冠の向こうを、さっきまで飛行機雲だっただろう長い雲がななめに横切っていた。
2018年3月12日
道の記
ホルトノキの植樹帯がなくなっていた。ところどころにほかの植物が植えられたり鉢が置かれたりもしていたのだった。横のお店に小さな鉢植えがいくつか置かれていた。
路地に面した大きなお屋敷が更地になっていた。地面から抜かれた木々が山積みにされていた。山茶花の花が見えた。敷地の端に槙の木の伐り株があった。まだ若く、根元から出ているのか伐られたのが落ちているのかわからなかったが根元で青々とした小枝が開いていた。
四つ角のひとつの角のお店の前に以前からヒメツルソバが出ていた。わずかな隙間からいきおいよく茂っていて、ある冬に寒さでやられてしまっていたのだが復活してまた茂っていた。その一帯が、舗装し直されていた。近くに来てみると隙間無く舗装されていて、ヒメツルソバが出てくる余地はなさそうに見えた。心惜しく立ち去ろうとしたとき、敷地の隅の隅にヒメツルソバの葉が少しだけ出ているのが見えた。
そのときが震災の時刻だった。遠くに雲の頂が見えていた。
道の記
唐実桜がなくなった線路脇には、柿の木の線路脇と同じように砂利が敷かれていた。大きなちぎれ根が1本、地面からうねり出ていた。そのまわりでオオイヌノフグリとフラサバソウがこまかな花を咲かせていた。
そこからあまり遠くない小さな場所で実桜が咲いていた。小さな木で、近くに寄ってみると若い頃にいちど伐られた跡があった。たぶん意図して植えられたものではなかったのだろう。いまの幹はその伐られ跡と同じくらいの太さになっている。花はなつかしく香っていた。
境内の再度伐られたくすのきは伐り株の断面がすっかり黒ずんでいた。芽が動き出している様子は見えなかった。
公園のヒマラヤスギは中程から上がなくなってしまったが、中程から下は変わらず葉を元気に茂らせていた。公園いっぱいにこどもたちが遊んでいた。
2018年3月11日
道の記
ずっと開いていないお店の前の放置されているプランターにいろいろな草がおりおり出ていたのだけれど、そのプランターがなくなった。お店の看板もなくなっていた。プランターの陰だったあたりから、ノゲシが伸び出て咲いていた。
ヒロハホウキギクが咲いていた大通りの中央分離帯をひさしぶりに渡った。ヒロハホウキギクは茎だけになって乾いて立っていた。となりのセイタカアワダチソウはかすかに緑味を残しているようだった。
坂を降りる途中、ソメイヨシノの枝が私の頭のすぐ上に伸び出していた。花芽の殻が割れていた。今年はどこで最初に花を見ることになるだろう。
宅地になることになったくすのきの林は、造成が始まっていた。手前に見えていたいくつかの大きな伐り株はどれもなくなっていた。丘の頂のあたりにいくつかの伐り株が残っているように見えたが、そこを残すという様子には見えなかった。色が変わった地面のところどころからちぎれ根が見えていた。
立ち去り際に立ち止まって振り返ると、遠くの山がくすのき林の丘と並んで見えた。山は青空の下で夕日に照らされて染まっていた。ふと、山が悲しんでいる、と思った。立ち去るとき、後ろからなにか鳥の鳴き声のような音がふたつ、きん、きん、と聞こえた。もう一度振り返ったけれど鳥は見えなかった。
ラベル:
クスノキ,
セイタカアワダチソウ,
ソメイヨシノ,
ノゲシ,
ヒロハホウキギク,
プランター,
山,
宅地開発中のくすのき林,
中央分離帯
2018年3月9日
道の記
もとセイヨウタンポポの電柱下は、スズメノカタビラの脇からホトケノザが出てきた。少し離れたところにセイヨウタンポポがいたのだけれど、そこもホトケノザが出ている。
柿の木の線路脇は砂利が入れられていた。すぐ隣には鋼板が立てられていて、遠からず大きな工事が始まりそうだった。
ラベル:
スズメノカタビラ,
セイヨウタンポポの電柱,
ホトケノザ,
線路横の柿の木
2018年3月7日
道の記
アキノノゲシがいた空き地はマンションショールームになっていた。地面は見えなくなっていた。
町は梅の香りが漂っていた。
遊歩道でご年配の方がベンチに腰掛けておられた。すぐ前のコンクリートにルリタテハがとまっていた。今年ルリタテハを見るのは初めてで、しゃがみこんで見ていたら、こどもさんが見つけて寄って来た。ときどき翅を開いて瑠璃色の模様が見えて、きれい、と言っていた。お母さんもやってきてひとしきり話した。そのあいだにご年配の方が立ち去っていかれた。みな立ち去ってルリタテハが最後までいた。
飛行機雲は雨になるよ、と、遊歩道を歩いていた方から教わった。
2018年2月26日
2018年2月22日
道の記
もう何年も歩いている大通りの歩道の脇に、気付かなかった伐り株があった。はこべの花に囲まれていた。
やはりよく通る道から見える公共施設の小さな倉庫の裏側から、いぬびわの木が大きく伸び出しているのに初めて気付いた。枝先にぱらぱらと実が見えた。
駐輪場の柵に赤いマフラーが結んであった。けやきの木がぜんぶ見ていたみたいにそびえていた。
交差点のこぶしの木にはたくさんの花芽がついていた。風が冷たくなっていて、ふかふかの花芽が少し暖かそうにも見えた。満ち始めたばかりの月が梢の向こうに見えた。
2018年2月20日
道の記
治療を受けている古木いちょうがいる屋敷跡は、いまマンションの建設工事をしている。対岸から見たらすでに高い建物ができていて、正面横のいちょうが建物の下で小さく見えた。絵本『ちいさいおうち』の絵のようだった。
中心街の大通りに面していた桜がなくなっていた。いま一帯が造り替えられようとしているところで、隣の建物も解体されて広々としていた。春、花の散る頃に通ると、人通りの多い歩道の上を花が舞っていた。その景色が、いま目の前にあるがらんとした広がりよりも自分の手前にあるように思えた。
咲きかけのさざんかの木が置かれていた更地は駐車場になるようだった。工事が進められているその奥に、色の褪せたさざんかの木とほかの木々がまとめて横たえられていた。
ラベル:
イチョウ,
サクラ,
サザンカ,
旧小学校の桜,
飯田屋敷跡のイチョウ
2018年2月13日
道の記
10年ぐらい前にこの橋を歩いたときもやっぱり冬の最中で、手すりの下にすみれがいた。きょうもすみれはいた。たもとに雪を溜めていた。河原では鴨たちがじっとしていた。
夜の道で、雪があられになった。あられは路面に降りても留まるところがなく、荒波のように、いや荒波でさえこんなに荒れてはいないと思うほど荒々しく路面の上を吹き流れていた。
吹き荒れる夜の大くすのき林を横に歩き過ぎながら、自分は明るくにぎやかな場所にいるよりもここで吹雪を受けながらずっと伐り株の木々を見ていたいと思った。手前の伐り株から伸び出ている短いひこばえがほの暗い雲にそびえ立っていた。
2018年2月12日
道の記
高い建物の上の給水塔のようなところから、からすが飛び立った。あとに何か鳥のようにも見える黒いものが残っている。からすだろうかと思ってしばらく見ていたが、遠くて、動いているのかどうかもよくわからなかった。幼木かもしれない。さっきのからすはそこで何をしていたのだろう。気が付くと、給水塔の真下に別のからすが1羽、ずっと留まっていた。
震える寒さになった。自動販売機でココアを買って飲んでいて、そこの庇の上からスズメノカタビラが出ているのが見えた。穂も出ていた。
公園で草探しをしていてこどもたちから声を掛けられた。近くの草を差して、こっちはアメリカフウロ、そっちはオランダミミナグサ…と話したら、すかさず、こんなにいろいろ名前を知っているなんてすごい、と言われた。ひさしぶりにこどもさんから誉められてうれしかった。
この前ここを訪ねたのは何年前だったか、そのときには伐られてまもなかったように覚えている大きな伐り株。時が経って、すっかりしずかになっていた。あちらの伐り株には小さな荷物が置かれて、おとうさんと女の子がゆっくりとおにごっこをしていた。
小学校は広々とした空き地になっていた。真ん中あたりに地面をそのまま活かした花壇が造られているほかは、あまり手を入れられていないように見えた。菜の花のように見える小さな葉が1列2列並んでいた。いろいろないろいろな春の草がところどころで同じく小さな葉を広げていた。さっきまでちらついていた小雪は、日差しにかわっていた。
2018年2月7日
2018年2月5日
道の記
雪ひらが次々と道路に当たってひとつひとつ砕けた。
車のいない大通りに横殴りに吹き荒れながら降りてくる雪ひらの中をなにか小さなビニール袋のようなものが翔け上がっていった。吹き荒れていても上がってゆくのはそのビニール袋だけのようだった。
耕作地が広がるその彼方の山を見ていたら、西の谷から吹雪がやってくるのが見えた。とんでもなく大きなものが襲ってきたように見えた。みるみるうちに山の景色は吹雪の煙に埋められた。それからほどなくここも吹雪になった。
道端でオニノゲシが花を開こうとしていた。春はここからはずいぶん遠くに思えた。
道の記
いまが寒さの底だろうと思う。あるところではイノコヅチが枯れて穂を高く差し上げているのを見た。あるところではイノコヅチはしおれながらもなお緑を残していた。となりの皇帝ダリアもそうしていた。
切り開かれた竹林の向かい側の同じく重機が入っていた小さな雑木林も造成が終わっていた。その区画の端に木々が並んでいた。手前の木は工事中のときに根元が掘削されていた木のように見えた。敷地内移植されたのだろう。木々の向こうから吹き上げてくる風はまだ冷たかった。
大くすのき林にはさらにいくらか工事の手が入ったように見えた。丘の奥のほうで、芽のない伐り株がなにかの建造物のように厳かに空に立っていた。
2018年1月29日
2018年1月28日
道の記
駅舎が新しくなった。これまでの入り口は閉鎖され、その前で、たぶん案内を兼ねておられたのだろう警備員の方がたぶん通りかかったのだろう方と立ち話をしておられた。
巻雲がきれいで信号待ちのあいだ空を眺めていたら、隣の女の子がきょうだいらしき男の子とお母さんに「あそこにくろがいるよ」とさかんに教えている。正面のマンションの上にからすがいて、そのからすのことを言っているらしい。色が黒だからか…と思っていて、ふと、crowだと気が付いた。とまっているからすの上方に円を描くようにからすたちが舞っていた。
傾き始めた日差しを受けて、古いブロック塀の下でチドメグサが数枚の葉を広げて、てかてかと光っていた。
2018年1月27日
道の記
新しくなった歩道の端で、学校帰りの小さな男の子がちょうど端をなぞるようにして歩いていた。その後から女の子が、その歩道端にある幅の狭い排水溝のふたを傘の先でつつきながら歩いていた。男の子は排水溝のふたの上を歩いていたのだと気が付いた。
2018年1月21日
道の記
道を間違えてしまい、行くつもりだった道へ抜けるために、またまったく知らない細道を歩いた。むかしながらの住宅が並ぶ中をくねくね行く。アパートの道際にいろいろな菊が咲いていたりするけれどじろじろ見ないで歩く。急に片側が開けた感じがした。小さな公園で男の子とお父さんがボールで遊んでいた。冬姿のけやきが晴れ空にそびえていた。
夜に通ったときは気付かなかったが、小さな畑のはじっこになずながたくさん咲いていた。
切り開かれた大くすのきの林には水仙が咲いていた。裸になった斜面のところどころに花が咲き、咲いていないところにもたくさんの葉が見えていた。大くすのきは赤い芽をたくさん出して次の暮らしに備えていた。
道の記
お家の塀の上にペットボトルの風車が顔を出していた。ちょうど日に向かって歩いているときで、風車は光を浴びてひときわ輝いていた。
刈られた稲がその田んぼ一面に伸び上がっていた。いくらかの株は穂を実らせてそのまま枯れていた。
2018年1月15日
道の記
工事が進む踏切のそば、地面が再度掘削されて元の舗装路面との段差ができているその断面から、ツメクサが生えていた。今年初めて見るツメクサは泥にまみれて花をつけていた。その横に、わりと大きく生長している同じく泥まみれのニシキソウがいた。その先にアメリカフウロの葉、オランダミミナグサの葉、そしてなにかキク科のように見える草のロゼットが見えた。
以前、そこにだけ春が来たようだと書いたわずかな場所の、たぶんわずかに残されているだけのこの時間に、春も秋もなにもかも凝縮して、草々のいのちが生きている。
2018年1月14日
道の記
いただいた野菜から出てきた青虫(モンシロチョウと思われる)を逃がすことに。人に迷惑がかからなさそうな場所で菜の花の類いの草が生えている場所ということで川の土手へ行き、ハナダイコンのふもとに青虫を放った。さっそく若葉にとりついていた。時期など含めてよい選択だったかどうかわからないが、いくらかでもよい暮らしが待っていることを願おうと思う。
むかしながらの町の一角に小さな空地があり、そこの梅の木の下でたくさんのむくどりが地面をあさっていた。すずめも混じっていた。私が近づくとほとんどのむくどりは逃げたけれども、1羽だけそのまま地面をつついていた。その横ですずめも1羽同じようにしていた。
信号が思っている方向と違う方向を青にし続けているので青信号を渡ってみた。その先で、ひっくりかえっているカメムシを見つけた。足を弱く動かしている。指に掴まったので、近くの植え込みに移した。小枝をしっかり掴んだ。寒い日がまだまだありそうだけれど、今日もうひとときのあいだは日差しが届いていそうだった。
2018年1月7日
道の記
喫茶店はやはりなくなっている。更地になっている場所は見た目その喫茶店があった場所より狭い感じがするが、木々がなくなっているためかもしれない。地面にはフラサバソウの双葉がかたまって出ていた。
排水溝からくすのきが出ているのをまた見つけた。こちらもこんもりと茂っている。くすのきのふもとには、くすのきではなさそうな落ち葉が積もっていて、道の真中でそこだけ小さな林の風情を見せていた。
向こうから歩いてこられた方が、歩きながらちらっとさざんかの花を仰ぎ見ておられた。直後にその方と目が合った。「こんにちは」と声を掛けてくださった。私もさざんかを仰ぎ見て、その先を歩いた。
2018年1月6日
道の記
桜並木の下にはタチスズメノヒエが並んでいた。伸び上がった茎のほとんどは実を落としていたが、いくつかは緑味を残していて、その1つを手に取って見たら新しい穂ができていた。桜とタチスズメノヒエが立ち並ぶその先から、日が差していた。
木々に囲まれた喫茶店があったはずなのになかったと、通り過ぎて気が付いた。途中に更地になっていた場所があったがそこだったろうか。正確な場所を思い出せない。お店の前の小さな広場にときどき猫がいて、その猫のいる景色だけが思い出された。
さっきまで空にくっきりと色あざやかに立っていた山が、もう薄暗くなっていた。西の空にはふしぎな形の雲が並んでいて、日の沈んだあたりがまだあざやかに光っていた。
ここからが冬なのだろう。
2018年1月4日
2018年1月2日
道の記
行きにはときどき通るけれども帰りにはめったに歩かない道を帰った。正面に大きな月が出ていた。今夜は少し薄雲がかかっていた。月は右上の隅がわずかに欠けていた。その欠けていることにしずかに怒っているようにも見えた。歩道の脇でだいぶ前から枯れ色をしているメリケンカルカヤの穂が、すすきの代わりのように月の手前で傾いていた。
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