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現在、機器の問題でブログの更新がやや難しくなっています。最新の記事はツイッターのほうに投稿し、このブログには可能なときに後追いで掲載するようにします。1日の記事が多いときにはブログに一気に投稿する場合があります。2020年9月18日(2021年6月1日修正)

2019年6月30日

道の記


目が疲れていたので、眼鏡を外して歩いた。足元の草は種類が見て取れるものもわからないものもある。でも、草のほうでは自分の「種類」をいちいち気にしていないにちがいなく、そうであれば私のほうでも過度に気遣う必要はないのだろう。


そう思いながら眼鏡無しで歩いていて、植木鉢のイヌビワが枯れていたお店の前を通りかかった。鉢がどうなっているか見たかったので眼鏡を掛けたが、鉢は無くなっていた。引き取られたのだろう。よく見るとそのお店の壁に、解体工事の告知札が掛けてあった。


まだ新しい道のまだ新しい街路樹に、細かな白い花がたくさん咲いていた。歩いていると雨のように花が落ちてきた。すでにたくさん降り積もっていた。工事中の道の対岸には、同じ種類のように見えるさらに新しい木々が植えられていた。


よく通る道のクロガネモチの街路樹が並んでいるなかに、空いている植え枡があった。土が掘り返されて均された後のように見えた。1本1本の木を見ていなかったのだと気づかされた。


以前手入れをしている人を見かけた歩道の植え込みのヤナギバルイラソウは、すでに花が咲き始めていたようだった。いまはしぼんでいるが、この雨が上がったら、花もまた開くことだろう。


2019年6月28日

道の記


前に初めて見たとき踏まれそうに思った足元のすみれは、あまり変わらずにいた。花を終えた後のようだった。


街路樹いちょうの切り株が新しいいちょうの木に植え替えられた場所の手前で、別のいちょうの木が切り株になっていた。ひこばえがしっかり生えていた。新しい木はまだ新しさを残したまま健やかに立っていた。


2019年6月23日

道の記


小さな入口のお店の前の小さな植木鉢に以前からイヌビワが育っていた。たぶん、自然と生えてきたものをそのまま育てていたのではと思う。そのお店がしばらく前に閉店した。イヌビワの鉢はそのままになっていたが、先日その前を通ったとき、イヌビワが枯れていた。まだ生きているかもと思って水を遣りたかったが、自分のものでも公共のものでもなく、まだだれかの持ち物かもしれず、何もせずにその場を去った。きょう通ったら、枯れた枝が切られて無くなっていた。鉢に水を遣った跡があった。

そのすぐ近くの、道端から生え出ているイヌビワに、先日だれかが水を掛けた跡があったのだった。


同じ道のその先の、花壇の脇から出ているイヌビワは、伐られていた。そのイヌビワは過去に何度も伐られた。また伸び出てくることだろう。


道の記


大通りの交差点を、ツマグロヒョウモンがこちらから向こうへとひらひら渡って行った。向こうへ渡るとあきらかに決めて飛んでいるように見えた。


行きがけに2つ信号のところのオニタビラコが道の対岸から見えなかったので、帰りに道のそちら側を歩いた。その一帯の草は草刈りか草取りに遭ったようだった。ねこじゃらしのように見える葉がいくらか残っていた。草取りの後に伸びてきたのかもしれない。


道の記


大くすのきの林だった場所は、土がもとの丘の高さよりもさらに高く盛り上げられていた。その土の向こうに、木の太い根が宙へ向かって伸びているのが見えた。くすのきの切り株が横になっているのだろう。ショベルカーが作業を続けていた。くすのきの香りはわからなかった。


1本だけ出ていたひこばえが刈られた桜の切り株は、新しい葉を1か所からたくさん出していた。枝を高く伸ばすより横に広げる様子だった。


ポプラの木が並んでいた公園にひさしぶりに立ち寄った。再整備されて、以前の姿はトウカエデ1本だけがとどめている。ポプラがいたあたりでまわりを眺めた。おたふくがたくさん植えられている。ポプラの姿はまったくなかった。公園はこどもたちや家族連れの方々でにぎわっていた。ボールが飛んできたので、投げて渡した。

公園を出た所に以前から小さなエノキとセンダンがいる。彼らは元気でいる様子だった。挨拶をして立ち去った。


ビル街のただなかの小さな野草ガーデン。ホタルブクロの白い花が細々と咲いていた。きょうはこれ以上歩けなさそうだった。ホタルブクロのつぼみにそっと触って、街を離れた。


2019年6月17日

道の記


きのう通りかかった公園への道をまた通ることになった。公園の桜を見たら、きのう見たひこばえが無くなっていた。草刈りに遭ったようだった。切られた跡があった。桜は伸び直そうとしていたのに。なんとも言えずそこを離れようとして、ふと、幹の下のほうに小さな芽を見つけた。これから葉になろうとしているようだった。

いつか、この桜が生きていることがここの人たちの目に留まりますように。


道の記


建物の基礎工事らしきものが進められていた大くすのきの林は、思いのほか大きな構造物が建てられつつあった。脇の歩道の植え込みは剪定されていた。先日見た、くすのきやえのきの幼木も切られていた。ひざ丈くらいになったえのきのそばに、同じ丈のマメグンバイナズナが寄り添っていた。


通りかかった公園に桜の木が並んでいた。1本、葉をつけていない木がいた。冬芽のまま止まっている。幹の表面に白い斑が出ていた。頭を下げて立ち去ろうとすると、幹の反対側のふもとから、たくさんのひこばえが伸びていた。私は元気だ、と、訴えかけてくるように感じた。


山は呼んでいるようだった。苦しかったらこちらへおいで、と、こちら側にいるすべてのいのちに優しく呼びかけているような気がした。登ろうとすれば険しいはずなのに、そこで生きていけるのもすべてのいのちがそうではないはずなのに、そう聞こえたのはどうしてだったろう。


2019年6月10日

道の記


オオキンケイギクのような草が交差点の隅に1株出ていたのを知っていたが、たしか昨年に無くなった。抜かれたのではないかと思う。思い出してそちらの道を行ってみた。オオキンケイギクは出ていず、その位置にコメツブツメクサが小さく陣取って花を咲かせていた。


***

春の小径を通った。ホトケノザなどが出ていた場所は苗代になっていた。水が少し入れられ、まだ細かな稲が密にかたまって立っていた。トキワハゼの花が水に浸かっているのが見えた。

その少し先では、梅の木がたくさんの実を落としていた。通り過ぎたときに、梅のあまい香りがさっとした。

この小径を知ってまだ1年にならない。いまの季節のこの小径の姿を知って、またすこし、この小径に近しくなれた気がする。


2019年6月9日

道の記


宅地になるほうの大くすのきの林だった場所は工事が進められていた。きょうは道の対岸のほうを歩いた。対岸には濃い緑が残り、足元にはキカラスウリらしき花が咲いていた。以前はひとつにつながっていた林なのだろう。しかし向こう側にいたボタンクサギはこちらでは見つけられなかった。


事業所の前の植え込みの淵に、まだだいぶ小さな猫のこどもがいた。こちらをおびえて見ている。寄って見ることはせず、そのまま歩いた。頭だけを動かして私のほうをさいごまで見やっていた。道の行く手にはいつものホリホックが静かな花を咲かせていた。


夕日を真っ向から受けている山並みを背に、反対方向の山並みを見ながら帰り道を歩く。飛行機雲が何本も流れて、いくつかはもうただの雲になっていた。ヒメジョオンや、たぶんヒメムカシヨモギだと思う草や、ヘラオオバコの大きな株が、歩道の脇にめいめい暮らしていた。


疲れてこの景色のなかに座りたいと思い、疲れたけれどこの景色をどこまでも歩きたいと思った。山も空も遠いままここにあった。


2019年6月8日

道の記


高速道路下の歩道から緑地帯を抜けるけもの道ができていて、その脇に椿などの木々が茂った小さな一角があったのだが、先頃通ったときにそこが切り開かれて防水シートのようなものが敷かれていた。きょう、歩道を逸れてそのけもの道を通ってみた。ネズミムギやチガヤやヘラオオバコが両側に茂っている。防水シートの隙間からもいろいろな草が葉をのぞかせている。しかし木の芽はわからなかった。けもの道は鉄工所の前に出た。


かかちぃ、かかちぃ、と鳴き声が聞こえる水際の鳥を声だけで知っていたが、葦のような高い草が茂る一帯の1本の草の茎の頂に、鳥が1羽留まってそのように鳴いていた。遠目ではすずめに似ていて、頭から背がまだらの茶色、腹が白に見える。初めて声の主を見た気がする。きょうの運はこれで使い果たした気がした。


道の記


桜の切り株の、1枚だけ草刈りを生き延びたひこばえの葉のとなりに、小さな芽を見つけた。


道の記


バイパスを横切る信号待ちのあいだ、歩道の脇の空き地のクズを見ていた。クズは広がるに任せていて、電柱にもよじのぼっている。歩道の路面にも木の枝のようになったつるが横たわっている。そのつるの上を、蟻が行進していた。通り道になっているようだ。そろそろバイパスの信号が変わりそうだった。


2019年6月7日

道の記


いろいろな行事で使われてきた大きな体育館が、取り壊しの工事中だった。たまたま入った道から、その様子が見えた。階段座席がむき出しになっていた。思い出はずいぶんむかしでもう明瞭には思い出せなかった。


植え込みで学校帰りのこどもさんがツツジの下をのぞき込んでいた。何がいるか尋ねたかったが通り過ぎた。


駅の前の大きな木々や草が茂っていたロータリーがなくなって車の待機所になっていた。待機所はがらんとしていた。


ここの排水溝のくすのきは無事だった。網から少し出ていた。学校帰りのこどもたちが少し遠くに見えた。


道の記


戸建て住宅地の脇に原生林のような林が広がっていた。公園だと地図には書いてあるが、どこかから入れるようには思えなかった。しばらく歩いて、小さな入口があった。山道だった。展望台への道があったので寄ってみた。木製のアスレチックのような展望台だった。下から犬の散歩の方が上がってこられて、犬が率先して展望台へと向かっていった。


少し遠回りをしたら、思いのほか道が長く、しだいに歩けなくなった。電車で帰ることにした。高架駅の下の崖の下を歩いているときに、横から何かの草がたくさん伸び出ていたのを覚えているが、何の草だったか思い出せない。それだけ疲れていたのだろう。


2019年6月6日

道の記


こどもさんたちが袋小路で遊んでいた。そのとなりで、もう他所では終わって見かけなくなったナガミヒナゲシの花が、ひとつだけ小さく、色褪せながら咲いていた。


2019年6月3日

道の記


大くすのきの林だった場所は、重機でさかんに丘が切り崩されていた。大くすのきの切り株は見えなくなっていた。ただ、くすのきの香りだけがしていた。

ふと足元を見たら、排水溝の網からくすのきの幼木が葉を出していた。若葉を広げつつあった。大くすのきの林のどれかのくすのきの、こどもにちがいないと直観した。そっと手を触れた。


***

もう1か所の大くすのきの林は、宅地の基礎を造っていた。敷地の中のほうはもう緑色はなく、敷地の端にいたボタンクサギなどの植物も見当たらなかった。しかし歩道の植え込みに、くすのきや、えのきの幼木が育っていた。かれらも、林の木々のこどもにちがいなかった。

すべてを見てきたはずの山々が、遠く、ただただ青かった。


2019年6月1日

道の記


この前に立ち寄ったとき下校中のこどもさんから警戒のまなざしで見られた公園は、時間が早いためか人は誰もいなかった。ひと休みした。鳩たちが休んでいた。餌をねだることもねだられることもなく、めいめいゆっくりした。


お店の小さな植え込みのクスノキは、切られた後なかなか動きがない。少しひさしぶりにその道を通ったのだが、芽は出ていなかった。


自動販売機裏側の柿の木は元気にしているようだ。つややかに葉を茂らせていた。


ここで休もうと思っていた路地の途中の小さな公園は、こどもさんとお母さんでいっぱいになっていた。紫陽花が美しく咲いていた。通り過ぎることにした。


道に大きく迫り出した木々があるお家の、その木陰を通ると一瞬涼しかった。ああ涼しい、と思わず声が出た。横を向くと木の下でお家の方が何か木の手入れのようなことをしておられた。


大通りでテレビ局の方にインタビューを申し込まれたが、そのテーマでいま思いつくことがなかった。残念そうにしていらっしゃったが別れた。まだ日は高かった。その先の道もおたがいに長そうだった。