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現在、機器の問題でブログの更新がやや難しくなっています。最新の記事はツイッターのほうに投稿し、このブログには可能なときに後追いで掲載するようにします。1日の記事が多いときにはブログに一気に投稿する場合があります。2020年9月18日(2021年6月1日修正)

2018年12月31日

道の記


どこで聞いたかわからない、栄光のワインディングロード、という言葉がふと思い浮かんだけれど、栄光は何もなかった。高台へ向かうつづら折りの道を歩きながら、つらかったことがたくさん思い出された。それでもきょうのこの晴れが、夕日が、これまでにあの場所で倒れ倒されていったたくさんのいのちが向こう側で受け容れられ、すでに救われていることを、この世に証しているように思えた。

見事な日没だった。

道の記


黄色のコスモスは生涯を終えていた。ありがとう、おつかれさま、と声を掛けた。


新しい駅へ続く小径は、ホトケノザがよりいっそう茂っていた。キツネノマゴは姿がなくなっていた。いまはこの春の小径を通って春へ向かうときだ。

道の記


昨年ホウキギクが出ていた道端は、今年は草取りがあった影響かホウキギクは出なかった。いまは花も穂もない小さな草がぱらぱらと並んでいる。次の春には花も咲くだろう。


電柱ランタナは冬を耐えるつもりのようだった。その小脇に別の小さな草がかくまわれて育ちつつあった。

道の記


モウコタンポポがいる場所が掘り返されていた。端のほうに1株、根元周りを削られながらロゼットが残っていた。前にも同じことがあったが、根が残っていれば復活できるだろう。信じて待とうと思う。


2018年12月29日

道の記


伐採に反対する声が上がっていた街路樹のケヤキが伐られたと新聞で読み、現地へ行った。道の両側のケヤキが1本を残して伐られていた。この前ここを訪ねたときに私が呼び止められた気がした銀行横のケヤキも、切り株になっていた。切り口はまだみずみずしかった。切り株を見ていると、道路を行く車の音がふととだえ、一瞬、何も音がしない時間が来た。そのとき、木の、ほんとうの声が聞こえた気がした。

2018年12月24日

道の記


夏、ビルの谷間に出ているのを見つけたヨウシュヤマゴボウは、半分近く枯れていたけれども半分は緑を残していた。黒い実をたくさんたくさん実らせていた。大きな仕事だったのだ。


大通りに面していた桜がなくなったその跡地に、大きなクリスマスツリー型のイルミネーションが輝いていた。


「救い主生まれる」の貼り紙が出された教会の前を通って、ふいに思った。木に、草に、救い主が生まれるのはいつになるだろう。


クリスマスイブに訪ねているこぶしの木は、この前と変わらずに春の準備を進めていた。夜の街はにぎわいをいっそう増して、そのにぎわいの上に広がるしずかな領域に、木はすでに届いているようだった。

2018年12月23日

道の記


繁華街の歩道の路面にトウカエデの葉が足跡のように散らばっていた。歩き回ったというより、踊り明かしたような足跡だった。


中心街の木々は電飾が巻かれていた。ただ、木に配慮してのことか、それぞれの木の枝全体のうち半数くらいだけに電飾が施してあって、残る半数の枝は黒々としていた。四つ角のこぶしもそうしてあった。金の光に照らされた冬芽が、あたたかそうにも寒そうにも見えた。


いつもクリスマスイブに訪ねるこぶしの木を少し早めに訪ねた。今年は冬芽をたくさん付けていた。今度の春にはこれまで以上にたくさんの花を見せてくれるだろう。向こうで、そのこぶしの木よりはるかに大きなクリスマスの電飾ツリーが、にぎやかに、でもしずかに、輝いていた。


2018年12月16日

道の記


先日、街路樹の下のヤナギバルイラソウを剪定している方を見かけた。市が植えているものではなさそうで、おそらく近くの方だったのだろう。きょう通った同じ道の少し手前の場所で、ヤナギバルイラソウが寒さのためか少し色を変えてしなだれていた。

道の記


お焼香に伺う前に、彼もきっとたびたび来ただろう公園に立ち寄った。明るかった。こどもたちが何か、シートを持って公園内を歩き回っていた。ひとりの子が見ていたポールに、クイズが貼ってあった。木々はまだいくらか秋の装いを残していた。

道の記


マンション前の電柱ふもとの朝顔がどうしているか気に掛かっていたけれど、その道を行くことがしばらくなかった。だいぶひさしぶりにその道をバスで通った。バスからはその位置に緑らしきものは見えなかった。帰りにそこを歩いた。電柱の根元に枯れ色の小さな切り株があった。


橋の上から見る山は遠かった。陽を受けて陰影あざやかで手に取るように見えているのに。


夜にユッカの花に慰められた幹線道路沿いの施設跡地、敷地の端に何か丈の高い切り株が残されているのに気付いた。何の木かわからない。生きているかどうか道からではわからなかったが、生きているかどうかというよりただ屹立していた。

道の記


ナガミヒナゲシなどの草が生えては枯らされる駐車場脇の植え込みで、ハルジオンが1株咲いていた。早春の花をいまの時期に見ることはよくあるが、ハルジオンを年内に見られるとは思わなかった。株は小さく、花は様子を見るようにそっと咲いていた。

2018年12月12日

道の記


通りかかったお家の正面のサザンカが見事だった。建物が道に直に面していて庭や生垣などはないけれど、その木を大事にしておられる様子が伝わってきた。そのお家の敷地の端にも大きな木がいた。行きのときは急いでいて何の木かわからなかったが帰りにクロガネモチだとわかった。


公園のくすのきも桜もこの前と変わりなく過ごしているようだった。きょうはたくさんのこどもたちや大人たちを見守っていた。

道の記


花壇の花が植え替えられていた。花壇の横のイヌビワがきれいな黄色に色づいていた。

道の記


小さな公園に立ち寄った。大きなくすのきや大きな桜が大事にされている。くすのきは黒い実がだいぶ鳥に食べられて、冬芽とは言わないのかもしれないが新芽が見えていた。桜は幹から出ている小枝にいくらか葉が残っていた。その葉が風に震えて、手を振っているように見えた。くすのきも桜も、きょう来た冬を全身で受け止めているようだった。

2018年12月2日

道の記


昨日、路面に蓑虫がいた。触ると生きているようだった。生きている芋虫や毛虫はどこへ行きたいかわからないので私は路上で見つけても動かさないことが多い。ちょっと心配だったがそのままにしておくことにした。今日、成り行きで昨日と同じ道を通ったが、蓑虫は踏まれていた。近くの木のふもとに安置した。


交差点のランタナは伐られていた。伐り株から小さな芽がたくさん出ていた。


伐採木置き場の伐り株イチョウはだいぶ落葉していたが、いま落葉しているということは元気にしているということだろう。


この道もしばらく通らないかもしれない、と思いながら歩いた。伐られた柿の木などの伐り株たちも変わらず元気のようだった。


大クスノキの林だった丘はさらに掘削が進んでおおむね表土がむき出しになり、丘の中腹に大きな伐り株が斜めに置いてあった。その向こうに、祭壇のように、緑の一切ないクスノキの伐り株が低くそびえていた。

道の記


街の小さな川のほとりでセイタカアワダチソウが綿毛になっていた。花ではなくこの白い綿毛がいっぱいな様子が泡立ち草の呼び名の由来なのではと勝手に思った。

道の記


空き地に白い花のホトケノザがいた。よく見る赤紫の花のホトケノザとくっついて並んで咲いていた。