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※ 現在、機器の問題でブログの更新がやや難しくなっています。最新の記事はツイッターのほうに投稿し、このブログには可能なときに後追いで掲載するようにします。1日の記事が多いときにはブログに一気に投稿する場合があります。2020年9月18日(2021年6月1日修正)

2019年10月17日

道の記


以前立ち寄ったうどん屋さんが取り壊し工事のさなかだった。


この道もしばらく通らないだろう、と思いながら、以前モウコタンポポを見た遊歩道に入った。モウコタンポポは少し咲いていた。いつものように手を振った。


キツネノマゴの公園は、キツネノマゴでいっぱいだった。おかげで少し元気をもらえた。すでにここまでにかなり歩いたが、もう少し歩ける気がした。


とても高いワシントンパームだった。だいぶむかし1度立ち寄った公園。この公園で何か大きな木を見たことがあるような気がしていたのだった。夕方になっていたが、こどもたちと親御さんたちが連休最後の日を惜しむように遊んでいた。


道の記


サクラタデという名前は知っていたが、こんなに桜だとは思っていなかった。


山が見えるほうの大くすのきの林だった場所は、片側は事業所の建物の工事が終わりに近づいていた。ボタンクサギが出ていた場所は塀が建っていた。塀にスリットがあり、そのスリットの所は地面があるようだった。砂利が見えていた。


山の呼び声は聞こえなかった。


交差点の角では鶏頭が1株、赤く咲いていた。彼岸花は花を終えた茎がしんと立っていた。


お家の前の道端のカンナは葉が出ていた。カンナを育てているのかどうかはわからなくなってしまったが、葉はあおあおとして元気そうだった。


田んぼを望む道端のコスモスはなくなっていた。田んぼは半分ほどがコスモスの葉でいっぱいになっていた。残る半分では刈られた稲が次の穂を実らせていた。


2019年10月16日

道の記


メガルカヤが今年も出ていた。少し離れてメリケンカルカヤが、ここでは少しおとなしく生えていた。


裏通りの感じがある小さな道の街路樹のふもとで、ヒナギキョウが咲いていた。ああ、いまも咲いているのだと思った。


満月のようだ。歩くほどにしだいに高くなってきた。


その月に後ろから照らされながら、公園へ繋がる橋の上でハーモニカを吹く方。童謡に続いて、むかし流行した演歌。月夜はまだまだこれからだ。


道の記


治療を受けている大銀杏が先日の新聞記事に登場した。新聞にはひこばえを育てているとだけ書いてあったが、いくつかの手法が使われている。いまどんなだろうと、通りすがりに様子を見た。高い所に残されている本体の枝に、ぎんなんが生っていた。


三叉路の脇に小さな草地がある。この時期キツネノマゴがときどき出ている。今年も咲いていた。場所一帯はコツブキンエノコロがたくさん出ていて、そのところどころに他の草がいる感じになっていた。エノキグサも、クワクサもいた。ツユクサも小さく咲いていた。


2019年10月9日

道の記


旧すみれプランター近くのキツネノマゴは、花を1つだけ咲かせていた。花穂はさらに高くなっていた。


道の記


エノキグサがひさしぶりの街の道で迎えてくれた。


古いお家が建っていた場所が、ほぼ更地になっていた。敷地内はまだ取り壊し工事が続いているようで、外の煉瓦塀が残っていた。この煉瓦塀だけが残される可能性もあるのかもしれないが、ここに何か新しく建つなら大きなマンションだ。煉瓦塀は時の流れを従えてしずかに居残っていた。


閉店した飲食店の階段手前には、スゲの仲間らしき葉が少し出ていた。しばし見ていたが種類が分からず、歩き出すと、すぐ近くにヒメクグが小さく生えて穂をつけていた。


水際で白鳥が何か地面あたりをつついて食べていた。こどもたちが寄っている。白鳥はこどもたちからえさをもらっているようだが、近づきすぎると首をしゃっと突き出して攻撃していた。えさをくれるなら攻撃しなければいいのに、と思ったが、何か別の考え方なのだろう。さらにこどもたちがやってきた。


商店街の中の空き店舗が取り壊されていろいろな花が植えられたり草が生えたりしていた小さな緑の場所があったのだが、砂利が敷かれて駐車場みたいになっていた。敷地の向こうに、大通りのベンチに掛けて何か食べているようすの方々が見えていた。


道の記


海外からの旅の人が珍しい楽器を路面に置いてバスキングをしていた。楽器が興味深くて見ていたら、手伝えと言う。楽器の可動部を動かして送風する仕組み。懐かしい音がした。旅の人はネット動画などを教えてくれた。何かに勧誘されそうだったがそこまでは至らず、笑顔で別れた。人々の行き交うなか、懐かしい音はまた流れていた。


道の記


日が暮れて、クサギのトンネルだった場所を、通っても花が見えないだろうと思いながら通った。通り抜けるあたりで花の香りがした。


道の記


ビルの谷間のヨウシュヤマゴボウはだいぶ実が熟してきたようだった。


大きな道路の交差点の監視カメラの上に、カラスがとまっていた。交差点の車を見下ろしていた。


いつもと違う道で帰ろうと思っていたが、そちらへ行く信号が2つ続けて直前で赤になり、これはいつもの道に何かあるのかと思って、いつもの道に戻った。


ヒロハホウキギクやアキノノゲシの空き地に土砂が入れられていた。草は少しだけ土からのぞいていた。


しばらく使われていなかった、民芸酒場風の空き店舗が取り壊されている途中だった。敷地の端のほうにたしかイノコヅチなどの草が茂っていたのだった。夜なので重機がそのまま置いてあり、壊れかけの建物が瓦礫になりながら半分残っていた。草の姿は見えなかった。


道の記


交差点の大きなナンキンハゼに、忍草がたくさんついているのに気がついた。年季が入ってきたな、と声を掛けた。


お家の道路に面した入口に、コメヒシバらしき草が穂を立てて並んでいた。このお家はきっといいお家だ、と、常識的ではなさそうなことを思いながら歩いていると、そのお家の敷地角のブロック塀の隙間から、大きく育ったイノコヅチが伸び出していた。


2019年9月30日

道の記


交差点のこぶしは、実も残っていた。花芽も出来ていた。

その近くの大きな柿の木は、実をつけていた。まだだいぶ青かった。


草も木もいないので地下通路のことを書くことがあまりない。ここもひさしぶりに通る通路だが、書くことはないだろう…と思いながら歩いた。出口近くになって、けやきの葉が通路の端に落ちていた。


ここにエノキグサが生えていたか、街中には出てこないとこの前お話ししたのは訂正しないといけない、と思った。

しばらく行くとクワクサも生えていた。この街にもクワクサがいることがうれしかった。


道の記


ある神社を訪ねた。境内の木が台風で倒れたという話を聞いて。神社は無人で木は倒れたままになっていた。撤去・修復の段取りにまだ入れていないのだろう。倒れて数日経つことになるが、破断面はまだみずみずしい感じを残していた。

神社の境内に入ってすぐ、香りを感じた。ああもうそういう季節になるのか、と思った。どこの枝に咲いた花があるのかわからないほど大きな、金木犀の木。手前の枝にはたくさんのつぼみを用意していた。


そういえばきょうも、母がむかし通った学校の地に来ている、と思った。もう学校そのものは遠く山の裾野に見えるか見えないかになっていたが、母も見ただろう山は青く、そのふもとに町並みと田畑が広がり、この川土手には彼岸花が赤く一心に並んでいる。1株、白彼岸花が咲いている。

その川土手のベンチに掛けてお店で買ったラスクの袋を開けようとすると、猫がやってきた。猫はすぐに何か判断したようで、鳴きもしないでそのまま立ち去って行った。行ったほうではほかの猫たちがのんびりしていた。


この街にひところ住んでいた、亡くなった友人のことを思い出していた。あの丘の上に見える住宅地のような所に住んでいたらしい。とても高いマンションが1棟立っていた。この街は私にはなじみのない遠い街だが、ここに暮らして私の街と日々行き来する人もたくさんおられる。そして自分もこの街にいまひとり居るのだった。犬の散歩の方々がすれちがっていった。犬ともども挨拶してくださった。


道の記


街道のようなむかしながらの町並みのすぐ外側は田んぼが広がっているようで、建物の隙間隙間からちらちら明るい緑が見えた。その向こうは低い山が幾重か連なる。知らない山だけれど、なにかの懐かしさを覚えた。


うちと同じように庭先にたくさんの草が生えているお家の前を通った。ああ、やっぱりこういうほうがいい、と思った。きっと、見たことがないような草も何か生えていることだろう。


そう思って歩いているうちに、駐車場の端で見たことがない草を見た。


赤いカンナと黄色のカンナが小川の縁を彩っていた。カラムシも緑をたくさん添えていた。


道の記


排水溝のクスノキは排水溝の網から外へ伸び出ていた。元気そうだった。すぐ下にイヌビワらしき葉も見えた。


道の向こう側のほうが緑豊かに見える。ここでは道路は横断できない。さっきの信号を渡っておけばよかった。でも、こちらの道にも、数は少ないけれどいろいろと草が生えている。こちらはこちらで見て歩こう。チチコグサがのんびりと生えていた。


少し歩いているうちにキツネノマゴが咲いていた。この道中、キツネノマゴを見たのはあとから思えばここだけだった。


列車で少し遠出するときにいつも眺める、開けた風景。いつかそこに立ってみたいという気持ちもあったけれど、実際にそこを歩く日が来るとは思っていなかった。田んぼと畑の中に小川が流れ、その脇に小径が通っていた。彼岸花がどこまでも並んでいた。白いサギがこちらを見て、ゆっくり去っていった。もっと遠い所にいるサギたちはそのままでいた。


以前、この町の病院に入院した親戚の方をお見舞いに、この道を通った。少し先にポケットパークがあるはずだった。ポケットパークはそのままだった。その方にはピアノを弾いたテープをお送りする約束をしていたが、お送りしたのはその方が亡くなる直前だった。そのことを苦く思い出しながら、病院の建物のほうを見た。このさきは行ったことのない道を行く。


2019年9月28日

道の記


以前ホウキギクが出ていた丁字路の角。今年はねこじゃらしが穂を小さく立てていた。


元すみれのプランターの近くで生き延びたキツネノマゴは花の穂をずいぶん大きく伸ばした。種子をたくさん作れただろう。

その近くで、胴があざやかな緑色のとんぼが路面にいた。尾が丸まっていたが、拾い上げると弱く動き始めた。どこか涼しい場所に移したいと思い、とんぼを手に持って歩いた。

公園の水辺は台風の後片付けでたくさんの職員の方が落葉回収作業をしていた。とんぼをそのあたりに置くわけにはいかないと思った。けっきょく、いちばん扱われなさそうな花壇にとんぼを据え置いた。とんぼはどう思ったかわからないが、ゆっくりと尾を動かしていた。


やま、と、近くの幼稚園の子らしきこどもさんがぽつんと言った。お母さんが、「坂」ね、と言って、こどもさんと坂道を登っていった。こどもさんはきっと、どこかの山の道を歩いたのだろう。とてもいい覚え方をしたのだと思った。坂を「やま」と思っていたことを、おとなになったいつか思い出してほしい、そんな気がふっとした。

その短い坂道のすぐ上に大きなケヤキとクスノキが立っていることを、書いているいま思い出した。


道の記


台風が過ぎた街の道は、街路樹のクロガネモチなどの葉や小枝が路傍に積もっていた。どなたかがそれぞれに掃いて集めたのだろう。


空き地のヒロハホウキギクなど丈の高い草は多くが倒れていた。このさきは倒れたまま花を咲かせ、それぞれに実りのときを迎えるだろう。


道端に小さく生えている松の木に、ビニール傘が絡んで留まっていた。


市街地公園にも夜が降りてきた。先日お目にかかったばかりのフルート奏者の方が公園の端でフルートをお吹きになる。多くの人が行き交うなか、朝のドラマの主題歌メロディーが、ビルの壁面に沿って、どこまでもかすかに流れていた。


2019年9月26日

道の記


ツクシオオガヤツリは秋の穂が出ていた。


小さな丘だけれどつくつくぼうしの声が山のようだった。


フジバカマらしき花が咲いていた。花壇なので園芸品種なのだろう。ほのかに香る。となりに斑入りの葉をした、やはりフジバカマの仲間らしき草が、花を準備していた。公園のここまで来る人はこどもさんと親御さんだけのようだった。



道の記


雨がありがたい、というふうに、建物の脇でヤナギバルイラソウが咲きそろっていた。


2019年9月23日

道の記


畜魂碑というものを初めて見た気がする。どこかできっと見ていただろうと思うのだが。すぐ近くではたくさんの方が畑作業をしていた。オクラらしき花が咲いていた。


歩く予定のなかった町の道を歩く。クワクサがところどころに生えていた。去年もここから遠くない町でたくさんのクワクサに出会って喜んだのだった。

母が通っていたという学校は木々の向こうで静かだった。その木々のふもとにもクワクサがいた。


ひさしぶりに歩く春の小径。トキワハゼが咲いていた。ほかの花はあまり見えない。キツネノマゴが出ていないと思いながら歩く。小径が終わるころにようやく見つけた。去年とは違う場所に出ている。稲穂は刈られるまでもう少しのようだった。


キバナコスモスは出ていなかった。その近くに赤白の彼岸花がたくさん並んで咲いていた。


ふと横を見たら、建物と建物のあいだでボタンクサギが咲いていた。大くすのきの林のボタンクサギを思い出した。ここのボタンクサギにしあわせが続きますように。


道の記


2つの敷地に分割された大くすのきの林。建物のほうの敷地はフェンスが撤去されて大きな建物があらわになった。ファサードに位置する隙間は少し草取りをした様子があった。ボタンクサギの幼木たちはそのままだった。

ボタンクサギの1株の小さな葉に、てんとうむしが留まっていた。別の葉は何かの虫に食われた跡があった。どんな小さな隙間にも、いのちの営みがあった。

山は暮れ色に変わっていた。


道の記


山の向こうから雲がやってきて、山肌に影を落としながら去って行く。山村暮鳥の詩を読んでいる気持ちになってきた。


オキザリスの花が咲いていた敷地は新築の住宅が並んでいた。


種類が定かでないたんぽぽが下に出ていたブロック塀は取り替えられていた。道路との隙間はコンクリートが完全に埋めていた。


民家を横に見下ろしながら下っていく坂道。以前ここを通ったときにはセイバンモロコシが並んでいた。同じ季節のきょうもセイバンモロコシが並んでいた。近くの穂を手に取った。穂は実りの色だった。


むかしからの生活雑貨のお店でラムネを買って飲む。お店のテーブルにもラムネの空き瓶が置いてあった。


道の記


ポケットパークはブタナが咲いていた。角の向こうには白彼岸花が並んでいた。お世話している方の姿は見えなかった。頭を下げて先を歩いた。


神社にお参りし、その神社の高齢のくすのきのまわりをまわった。威容だけれど、この姿はひとときひとときの小さな活動の長い長い積み重ねで出来ているはずだった。そのいまのひととき。

こどもさんがひとりで、その木のまわりに敷かれている木のデッキの上で、木の足音をたしかめるように鳴らして遊んでいた。


道の記


いろいろな道で道端の木や草がなくされているのを見てきて、ひさしぶりに通るこの道も何かなくされているのではないかと不安に思いながら歩いた。道端に小さな蘇鉄がいるはずの場所に差し掛かった。蘇鉄は元気にしていた。まわりには、柿やアカメガシワの幼木もいて、タチスズメノヒエが穂を高く伸ばしていた。


山の方向へ向かって歩く。空はとても青く、日差しは強いが、風が涼しい。ようやく夏が来た、という錯覚に見舞われた。


休憩のため公園に立ち寄った。向こうのほうでお姉さんと妹さんのように見えるこどもさんが遊んでいた。私がベンチで休んでいると、やや近くまで来てそこで遊び始めた。となりの集会所で声がするので、そこに居るどなたかを待っているのだろう。そろそろ行かないとと思って立ち上がる。少し公園を歩くと、さっきこどもさんたちが遊んでいた所のそばに花壇があった。コスモスが少し咲いていた。


道端のお家の畑の端にイヌコウジュが出ていたのをだいぶ前に見た。そのあと、季節なのにイヌコウジュが出ていなかったのも見た。そこを通ったけれどイヌコウジュは出ていなかった。立ち去りながら、見つけられなかったのかと思って後戻りしてもう一度見てみたけれど、出ていなかった。


このお家の向こうには大きな木があったような記憶があるが、空だった。その隣のやや大きな木と勘違いしていたのかもしれない。立ち去る前に、その空に向かって、記憶にある大きな木を思い浮かべた。


2019年9月18日

道の記


通るときにいつも道端の花壇を手入れしている方がおられる。きょうは声を掛けた。話し好きな方だった。約束の時間があったので声を掛けておきながら失礼した。


だいぶ一帯の工事が進んだが、物置はそのままで、物置の裏のイヌビワもそのままだった。


クサギのトンネルはトンネルとしての復活は遠い感じだが、花はよく咲いた。トンネルの端だった位置の、切られてから再度伸び出したクサギの幹がまっすぐ立っていて、ぐるっと輪のように咲かせた花を空へ差し上げていた。


道の記


大きな道の横に小さな畑があっていろいろな作物が育てられていたのだが、その畑がなくなっていた。これから何か建てられるか駐車場になりそうな様子だった。


橋のたもとから出ていたイヌビワがなくなっていた。


小さな道へ入る角の縁石まわりにスミレが出ていたのだが、舗装し直されたようだった。草はまったく出ていなかった。


私の前から歩いてきた人が、横のビルとビルの間の隙間をちょっとのあいだ立ち止まって見ていた。その方が立ち去ったあとにその隙間を見てみた。ごみバケツとイヌビワの幼木が見えた。その方がどちらをごらんになっていたのか、どちらでもあるのかないのか、わからなかった。


道端のくすのきの幼木は切り株のまま動きがなかった。


向こうに柿の木がいた駐車場の柿の木がなくなったと思っていたが、そこより手前の駐車場の向こうに柿の木らしき木が見えた。なくなったと思ったのが自分の勘違いだったのか、だとするとこの木が私には見えていなかったのか。


大きなくすのきが1度切られた後、ひこばえが残されて育てられている小さな公園。草は取られているようで、土が新しく入れてあった。ベンチで休みたかったが若い人とやや若い人で埋まっていた。先へ歩くことにした。


2019年9月10日

道の記


すみれのプランターが植え替えられていた。近くにはキツネノマゴもプランター内に出ていたのだが、一斉に植え替えられたようだ。ガザニア、なでしこの仲間のような花、まだ緑だけの花。すみれはまったく見つけられなかった。

その近くに1株だけキツネノマゴが生えている。この場所で生き残ったのはこの株だけになったかもしれない。花が咲いていた。このキツネノマゴがひとりになったことは、キツネノマゴには知られないほうがいいと思った。しかしわかっているかもしれなかった。


ナガミヒナゲシやノミノツヅリが出ていた信号のふもとも、草が無くなっていた。ここも花のプランターが新しく並んでいた。



ヤナギハナガサが出ていたお店の跡地の横を通った。もう草も花もいない敷地をもういちど目にして、どこに向かってでもなく声を上げた。


道の記


取り壊されていた建物の敷地が更地になっていた。敷地の歩道沿いにカイヅカイブキが植えてあって、その下にガザニアなどいろいろな花と草がいたのだが、まったく姿が無くなっていた。そのあたりに木のちぎれ根が見えた。少し離れて、エノコログサらしき葉が1株分だけ見えた。


電柱ランタナは何の動きもなかった。電柱ねこじゃらしもまったく緑はなかった。


道の記


ああここにはヤナギハナガサが出ているのか、と思って通るたびに見ていたお店の跡地。草が取られて無くなっていた。
きれいにしたつもりなのだろうけれど、美しいものが無くなった。


道の記


チャンチンの植え込みは草とチャンチンとともに刈られていた。チャンチンはさっそく小さなひこばえを出していた。


枯れたニッケイは切り株になっていた。ニッケイに付けられていた管理札が切り株の断面中央に打たれていた。


2019年9月9日

道の記


山の向こうに入道雲。夏が山の向こうに去って行くよう。


道端のかんなは無くなっていた。かんなだけでなく、まわりの草が枯れたようにしていた。この前はかんなが咲いていた。このかんなはやっぱり育てられていたのだと思って安心したばかりだった。


田んぼは刈り取りが済んでいた。鳩や雀が集まっていた。道端のコスモスはさすがに花はなく、いまは他の草たちと並んで秋の深まりを待っているようだった。


ひこばえが伐られた桜の木は、もう枝からは芽は出てこないようすに見えた。わずかに残った数枚のひこばえの葉がこの木のいのちをつないでいるようだった。


道の記


もうひとつの大くすのきの林だった場所は、どうも2つの敷地で運命が異なったようだ。片方は管理地の札が立ち、手つかずになっている。横の歩道を歩いているとヤナギハナガサの花が歩道に出てきていた。敷地内にはアレチハナガサとヤナギハナガサがめずらしく並んで咲いていた。もう一方の敷地は建造物の工事が進んでいる。その隅っこに、以前ここで咲いていたボタンクサギのように見える大きな葉の幼木が出ていた。キカラスウリのつるが下を這っていた。


その先のお家が取り壊されていた場所は土地が掘り下げられていた。崖はほぼなくなっていた。以前は崖の上から何かの実が落ちていて、しかし何の実だったか思い出せずにいた。歩道の植え込みから柿の葉が伸び出ていたのを見つけた。


交差点のホリホックは葉だけになった。となりで白彼岸花と鶏頭が咲き始めていた。草取りをしている途中らしく、取られた草がひとつかみになって歩道に放ってあった。


道の記


モウコタンポポが生えている場所は草取りの跡があった。敷地の端で一輪だけ、植えられた花々を横に咲いていた。


大くすのきの林だった場所は掘削された土砂がさらに高く積まれていた。くすのきのふたつの切り株はこの前のときと同じにそのかたわらに置かれていた。




道の記


桜の切り株の刈り残されていた葉が、虫にかなり食われていた。小さな芽があるけれどそれが大きくなる様子はない。


にぎやかな道でなく、横にずらっと草が並ぶ裏道のほうへ曲がった。ハゼランがにぎやかに咲いていた。


だいだいの雲と青い雲。飛行機雲がしばらく前に出来たようだった。空をスケッチするために立ち寄った公園では、小さなこどもさんがご両親に遠く見守られて遊具で遊んでいた。桜もいちょうも秋のはじまりに立っていた。


2019年8月31日

道の記


長い雨が上がった。


空き地の草はのきなみ高くなっていた。ヒロハホウキギクだけが咲いていた。むしろ花を終えて綿毛になっていた。それもまた花のようだった。


道のこちら側を通ることがこのごろなかった。大きなヒメムカシヨモギが並んでいた。かと思うと、クロガネモチの木のふもとにハゼランが大きく伸びて咲いていた。待ってましたと声が聞こえた気もした。


草の世話をしている場所で、ヤブガラシをちぎって手に持っていたら、小さなこどもさんがやってきた。手にヤブランの花を持っている。どこかで摘んできたのだろう。仲間だと思ってくれたようだ。


マンションの上のほうの階に陽が当たっていた。雨が明けてまだ太陽を見かけていない。振り向いたが、建物の上に赤みがかった入道雲が見えるだけだった。


道の記


お地蔵さんは変わりなかった。いや、お社が新しくなっているような気がした。大きな木々が小さな森をなしている、その崖の真下。頭を下げて立ち去る。おとなりのお家の方が車の中からこちらを見ていたように思い、車にも小さく会釈して。


この道は帰りには通らないだろうと思いながら、切り立った崖の中を通る小さな国道を歩く。思いがけず、沿道の草はペラペラヨメナだった。ヨモギもとうを立てていた。


雨がひどくなる。列車の出る時刻までだいぶある。川土手のあずまやに入って腰掛けるとすぐ、猫がやってきた。猫が食べそうな食べ物はない。さかんに声を掛けてくるが食べ物はないと返事をするだけ。そのうち、なかばあきらめたように私のそばで座り込んで、それでもときどきにゃあと声を上げる。もう、何かねだっているのとは違うようだった。


雨の中、記念碑の場所にたどりつく。もう夜で足元もよく見えない。それでもそこに生えている草が気になってしゃがむ。ヒエガエリだと思う穂の草と、あまり見た覚えがないへら状の葉をした草。ここでも草はいつも歩く街と違うようだった。そこを離れて駅へ向かう繁華街の花壇で、同じへら状の葉の草を見た。花として育てられているようだった。


道の記


いつもの生活範囲や、1年に1度くらい来る範囲をさらに離れると、街の中の草がもう違う。見たことがない種類の草がふつうに生えている。この途中下車した駅前の植え込みも、むぐらの仲間のような知らない種類の草がぽつぽつ生えている。少し見ていたかったが、乗り継ぎの旅なので時間がわずか。心で手を振ってその場を離れる。


バスの休憩で降り立った場所も、知らない種類の草がいっぱいだった。そちらを見るのにいそがしくしてしまって、ブタナが咲いていたけれどさっと見るだけだった。


おおよそ6年ぶりの道。たしかこの道だったような…と、先を進むとどうも違う。振り返るとあざやかな花が敷地の角に見える。あ、あの角を入るのだったかもしれない。戻ってみるとたしかにそのようだった。


岩穴に立ち入れるようになっている。つっかけに履き替えて岩の上を歩くと、足元はトキワハゼの花だった。洞穴に入れるのは入れたが足がつるつるすべって怖い。ひっくり返らないようにおそるおそる脱した。大きなゆりの花が待っていた。


2019年8月29日

道の記


切り株の桜の芽はまた刈られていた。株の根元が刈りにくかったようで、数枚の葉が残っていた。今回、桜が枝を横に伸ばしていたのは正しかったということだろう。


大くすのきの林には大きな重機が来ていた。建設工事がこれから始まるのだろう。小さな緑は重機の陰で見えなくなった。切り株は置かれたまましずかだった。


柿の木や樫の木が切り株になっていた場所は、土が重機で掘り返された様子だった。切り株は根から無くなっていた。ちぎれ根が地面から出ていた。以前から敷地の中には廃棄物のような物々が放置されていたが、切り株らしき姿は見えなかった。

このあいださわった柿の葉も樫の葉もその感触をおぼえている。


前を見ずに歩いていて、ふと、田んぼだった場所の花壇の花が目に入った。私は咲いてるよ、と、呼びかけてきたように感じた。


造花が供えてある手向け花のプランターに、少し長めのねこじゃらしの穂が1本、立てかけてあった。よく見るとプランターの中からも穂が1本伸びていた。プランターの中にねこじゃらしが生えていてそれを1本抜いて立てかけたのか、2本持ってきて1本をプランターに差したのか。いま考えるとプランターに土が入れてあるとは思えない。どこかからどなたかが持ってきてお供えしたのだろう。ねこじゃらしはそれぞれに、そこに緑を添えていた。


2019年8月28日

道の記


斜面の樹木をいくらか伐採すると告知が出ていた。跡地全体の工事に先立ってのことだろう。もともとふつうに立ち入ることができる場所ではなかったが、工事後は一般の人たちが利用可能になると聞いている。緑も、生かしてほしい。


からすやすずめが倉庫の上にたくさんいた。たぶん猫の餌を待っているのだろう。猫はいなかった。


クサギのトンネルだった場所のクサギも咲き出した。暗闇の中に薄白く花が見えた。今年はトンネルには戻らなかった。それでもしばらくはトンネルと呼び続けようと思う。いつか、戻る日も来るかもしれない。


道の記


チャンチンの木が植えてあったのになくなった交差点。その植え込みにさしかかったとき、あまり背の高くないチャンチンの木が、数本生えているのに気づいた。もとの木かどうかわからない。チャンチンは小さな傘のように枝を広げていた。


キツネノマゴの公園はまだキツネノマゴは咲いていなかった。この公園を初めて通ったときに見た、ヒナギキョウの花が少しだけ咲いていた。


さっき入れなかった店にもう1度向かう。繁華街の裏の知らない道で、ここを通って行けるのかどうかわからない。お家の前に大きなランタナ。花が咲き、いくらかのつぼみをつけていた。


このあたりは客引きに遭うかもしれない。そう思いながらも、もう少し歩いてみる。ふつうの暮らしのお店があるのでだいじょうぶかと思う。ほどなく、知っている大きな道に出る。車も人もたくさんに行き交っていた。ひょっとしたら、ここまでの道のほうがしあわせだったのかもしれなかった。


2019年8月21日

道の記


大くすのきの林だった場所の、丘の上に置かれていたくすのきの切り株は、丘の脇に移されていた。丘の向こう側に、小さくこんもりした一点の緑があった。木なのか草なのかわからない。小さなくすのきの樹冠のようにも見える。その緑がいまこの場所でいちばんの高みにいた。


先日夜に通ったとき小さな緑の馬に見えた道の脇のヒメムカシヨモギは、きょうは馬の形をしていなかった。今年の茎はしおれかかっていて、去年の茎は今年の茎とは分かれて立っていた。今年の茎にもたれていた部分が枯れ落ちたのかもしれない。


歩く途中、蝉を拾っては土のある所に置いて行った。生きている蝉は木を探して幹に移した。しかし次第に私も歩き疲れて、人が踏まなさそうな位置に落ちている蝉はもうそのままにして先を歩いた。最後に見た蝉は、学校のグラウンドの網の下に逆さに挟まっていた。動いてはいなかった。


道の記


線路脇はもう草も生えていなかった。まわりには、薬を撒かれた様子で枯れた草が残っていた。


電柱ランタナは出ていた葉がなくなっていた。


電柱ねこじゃらしの近くに出ていたねこじゃらしもなくなっていた。


以前、ナガミヒナゲシやノミノツヅリが出ていた信号の脇には、背の高いヒロハホウキギクがいた。ヒロハホウキギクは今年はあちこちでよく見かける。そのヒロハホウキギクたちが、いまそこにいない何か誰かのかわりを務めているような気がなんとなくした。


道の記


駅前通りの歩道の端のアレチノギクが高かった。思わず手を伸ばして触った。バス待ちの方にちらっと見られた気がした。


2019年8月15日

道の記


交差点の電柱の影にヒメジョオンの花が見えた。のぞき込むと、オヒシバと並んでいた。きょうも日差しはすさまじかった。


大くすのきの林だった場所は、この前通ったときには土が積まれて上が平らにならされていたが、その上に、くすのきらしき切り株が置かれていた。ここはやっぱり、くすのきの場所なのだ。切り株は切り株の形をしていなかったが、空に向かっていた。

丘のはずれの切り株は小さな緑を従えていた。その切り株の芽も出ているのかもしれなかった。


柿の木の切り株から少しだけ離れた位置に、柿の芽が出ていた。切り株の芽なのか、切り株の柿の木のこどもなのかはわからなかった。


道の記


低い山の裾野に広がる田んぼの中を行く県道。歩道はセイバンモロコシが立ち並んでいる。その中で1か所、キツネノマゴがかたまって生えていた。今年初めてキツネノマゴの花を見た。農家のお家の影が掛かる位置だった。その先はまたセイバンモロコシの続く道だった。


お店も自動販売機もない道だった。あらかじめ飲み物を調達しておくべきだった。ふらふらしてきた頃にようやく自動販売機があった。食堂だったようだが閉店してしばらく経つ感じだった。飲み物をありがたくいただいた。お店の入口の横にキンモクセイの木がいた。クモが巣を張っていた。木の葉に触れると、触れたところに私の汗が水滴になって付いた。


以前は畑だったのかもしれないいろいろな高い草が生えた土地の手前に人の後ろ姿が見えた。立ったままじっとしておられる。何をご覧になっているのだろうとこちらも少し立ち止まりかけたが、その立っておられる姿勢で私も気づいて、先へ歩くことにした。


この道を再び歩くことはないかもしれないと思いながら歩いた。いくらかの雲と、とんでもなく青い空。何かのつる植物が何か煙突のようなものを全面緑の柱に変えていた。農作物の無人販売スタンドが何も置かれず放置されていた。道向こうには小川が流れているようだった。この小径の景色がこの夏の思い出になる予感がした。


道の記


クサギのトンネルだった場所でもクサギの花が咲き始めた。しかし香りはわからなかった。通る人の香水のにおいのほうが強かった。

その先のクサギの花がたくさん咲いている場所では香りが立っていた。クサギとは言うが臭いというよりは香ばしい。でもそれは私がここを通り過ぎる人間だからだろう。近くに住む人や働く人はつらいかもしれない。そう思ってあたりを見回したが、クサギよりはるかに高い所にそびえ立つマンション群へは、香りはいつもいつも届かないだろうと思い直した。


空き地はヒロハホウキギクが高くなり始めた。アキノエノコログサも多い。このごろは草を見ると反射的に手を小さく振っている。その振っているところを向こうから歩いてきた人に見られた。見られたと言ってもすぐに視線を外されたようだった。すれちがうまでは私も手を振らないでいたが、すれちがった後には気がついたらもう手を振っていた。


イヌビワのいたお店の跡地は整地が始まっていた。重機がすみずみまで手を入れていた。


道の記


ニッケイの木が大枝を伐られていた。台風に備えるためだろう。遅い時間だったのでその日のうちに伐採されてしまうことはないだろうけれど、呼んでくれたのだろうと思った。


2019年8月14日

道の記


大くすのきの林だった場所は、丘が盛り土をされて一段高くなっていた。盛り土の頂部はたいらにされて、全体が空に向かって祭祀する場所のようになっていた。しかし祭司はいなかった。


いつかの春の畦にムラサキサギゴケを見た田んぼは大きかったのだが、建物が建っていた。


夜の歩道の端に、小さな緑色の馬を見た気がした。よく見ると、ヒメムカシヨモギの茎が伸びて、その横に枯れ茎が馬の胴体のようなかたちを付けていたのだった。枯れ茎もヒメムカシヨモギのようだった。花の跡があり、去年の茎のように思われた。


道の記


スーパーマーケットの跡地は更地になり、一部だけが駐車場として使われている。歩道際のあたりには、ヒロハホウキギクらしき草、アキノノゲシらしき草、アキノエノコログサ、オオアレチノギク、なにかのセンダン草など、高い草が立ち並んでいる。そこだけ広い空に、木星とアークトゥルスがそれぞれぽつんと輝いていた。他の星はわからなかった。


たしか古いお家だったと思うが、もう思い出せない。そのことに茫然としながら、重機が止まっているほぼ更地になった後の敷地の横を通った。歩道のクロガネモチが1本、膝丈ほどの高さで伐られていた。赤いテープが巻いてあった。そっと触れた。切断面が街灯に白く照らされて、年輪までわからなかった。


道の記


跡地の外周を巡る緑道の、まだ工事中だった箇所が開通していた。そこを歩くのは10年ぶりになる。気になっていたニッケイの木に近づく。見上げても緑の葉は見当たらない。樹皮が剥がれかけていた。それでも会えてうれしかった。でも、うれしいだけではまったくなかった。

ニッケイの木は多くの方々に人気だった。こどものころ根をかじっていたとか、根を掘り上げて売ってこづかいにしたとか、むかしの思い出をたくさんの方からうかがった。そのときの光景が目の奥に浮かんだ。どなたもしあわせそうにお話しになっていた。

ニッケイの木は暮れた空に枯れた葉をいくらか残しただけの小枝を広げていた。私は、樹皮の浮いた幹に触れて、おつかれさま、としか声を掛けてやれなかった。思いはそれだけしか言葉にできなかった。


道の記


ビルの谷間のヨウシュヤマゴボウはビルの谷間に小さな山を作っていた。実が半分ほど熟しているようだった。


校舎の解体工事が始まるように聞いていた。全体の三分の二ほどに網が掛けられていた。校舎の横に大きな榎の木が立っている。大切にされてきた木だが校舎解体に伴って撤去されるという話を聞いている。校庭のフェニックスなどの木々は早くに無くされた。榎はきょうも変わらずに立っていた。


2019年7月30日

道の記


クサギのトンネルだった場所に差し掛かる直前に、クサギの香りがした。もう夜だったので灯りを付けていたが、その灯りでクサギの花が歩道の路面脇に落ちているのが見えた。見上げると、高いコンクリート擁壁の上に、伐採を免れたクサギらしき木々が並んでいて、花を付けているのが暗がりの中ぼんやりと見えた。その視野の中で、空を明るい点光がかすめた。イリジウム人工衛星のようだった。


猫が有料駐車場のまんなかで向こうを向いてべたっとしていた。茶色の猫で、白色の灯りに照らされて、駐車場の黄色の線とほとんど区別がつかなかった。


ほかの場所ではオニタビラコを見かけたが、2つ信号のオニタビラコの場所ではオニタビラコは出ていないようだった。エノコログサが車のライトや街の灯りを受けていた。


道の記


ホリホックは花が終わっていた。ありがとう、と言いながら花を咲かせていた茎にさわった。そうしていたら、低い茎にひとつ花が咲いていた。電柱のアース線というのか、その陰になっていて気づくのが遅れた。花は陰に向かって咲いていた。


山はやっぱり呼んでいるようだった。あの懐かしく見える山はしかしまだ3回しか登ったことがないと、思い出を数えて思った。思い出はぜんぶこどものころの遠い思い出だったが、きょうもあのころの自分のような誰かがその山に登っているという気がした。


道の脇のカンナは咲いていた。もうこのお家はカンナを咲かせるつもりがないのかと心配していた。カンナの花を見られて、ここまで歩いた甲斐があったと感じた。


ときどき花畑になる田んぼは今年は田んぼになっている。その田んぼの手前の歩道脇に、低い丈のコスモスが2輪咲いていた。田んぼの稲はまだこれからだった。


道の記


旧国道沿いの大きなお店の駐車場の端で、女性の方が何か言っておられた。歩いているうちに、こどもさんが見えてきた。そのこどもさんに、ばったもおらんね、と話しかけておられる。アキノエノコログサらしき草が敷地の隅にちいさな野原を作っていた。

アキノエノコログサはその先で株立ちになってたくさんの穂を放射状に付けていた。このかたちのアキノノゲシはちょっとめずらしいな、と思っていたら、すぐとなりに、タチスズメノヒエがまるっきり同じ角度でたくさんの穂を放射状に広げていた。


山が見えるほうの大くすのきの林だった場所は構造物が大きくなった。歩道植え込みのくすのきはまた少し伸びてきた。敷地界にヨウシュヤマゴボウが生えていた。花を咲かせ始めたばかりのようだった。キカラスウリやセイバンモロコシもいた。わずかの隙間に草たちが茂みを作り始めていた。

その様子を見ながら先へ行こうとすると、隣の大きなお家があとかたもなくなっていた。高いコンクリート擁壁の上にいろいろな木々が植えてあって、下によく実が落ちていたのだった。しかし木々もまったくなくなってしまったように見えた。そして、落ちていたのも何の実だったかもう思い出せなかった。


2019年7月29日

道の記


花壇の田んぼは舗装されて駐車場になっていた。花壇はそのまま残った。マリーゴールドやポーチュラカや種類を知らない花が可憐に咲いていた。コモチマンネングサは花は見えず、ただ緑にしていた。


山には横から陽があたっていた。彫りの深いあざやかな緑。あの稜線まで駆け上がることはいまの自分には無理だ。でも、いつかもういちど登りたいという気持ちもわずかに残っているようだった。


桃には実がなっていた。そこまで来ると山は遠くも近くもない、いつものそこにある景色だった。


道の記


以前、夜に疲れて歩いていたその通りすがりに、ある公の施設の敷地に見えたユッカの花になぐさめられた。その施設がなくなってだいぶ経った。きょうやはり疲れてその横を歩いていて、跡地の端に、キカラスウリの花を見つけた。おかげでもう少し歩ける気持ちになれた。


2019年7月26日

道の記


以前マンションの植え込みにたくさんのすみれを見つけたその通りは、歩いていると道端のあちこちにすみれが出ていて、すみれ通りだったのだとだんだんわかってきた。きょうもすみれをたくさん見た。花は咲いていない。それからヨツバハコベも少し出ていた。


以前ポプラが並んでいた再整備公園の外れに残っているエノキとセンダンの小さな木の下で、芙蓉が花を咲かせていた。


疲れていたが、少し遠回りをして、マンション前の電柱のところを通った。あさがおがいるはずだった。以前あさがおを見た電柱のふもとには出ていなかった。そのすぐそばの、ガードレール支柱の脇から、つるが伸び出ていた。つるは短くて花はしぼんでいたが、元気そうだった。



小さな交差点の角に、手向け花を見つけたのは何年前だったか。名前がひらがなで書かれた小さな石と、小さな花瓶が置かれていて、そこに花があげてあった。通るたびに新しい花があげてあるのを見ていた。この1年ほど、花を見なくなった。何かの周年が過ぎたのだろう。きょうも花瓶は空いていた。交差点を渡ると、そこの電柱のふもとで、すみれが花を終えていた。


2019年7月25日

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木造の昔ながらのお家が無くなって更地になっていた。駐車場になる様子。塀や垣根がなく、つわぶきが道の脇で咲いていたのだった。砂利が一面に敷かれた敷地の隅にいくらかの草が生き残っていた。


しばらくぶりに通った電柱ランタナはあれからまた伐られたのか、近づくまで何の緑も見えなかった。そばに来てみると、とても小さな葉が数枚出ていた。


電柱ねこじゃらしは絶えたままだった。その近くのマンションの表玄関の植え込みの陰に、ねこじゃらしがちらっと見えていた。


草が生えている街のほうがいい。そう思いながら歩道を歩いていると、すぐ先の駐車場の入口のブロック塀の脇から、ハゼランが花をそっと出していた。その入口に差し掛かって横を見ると、ハゼランが塀沿いに並んで細い花畑をつくっていた。


2019年7月22日

道の記


柿の木や唐実桜のいた線路脇は構造物と砂利とでほぼ占められていた。その脇にノゲシらしき葉がいくらか出ていた。


桜が撤去されて新しい木が植えられて5年。地面から、ひざの丈ほどの桜の芽がすっくと伸びていた。近くの桜の木の根から出てきたのだと思うが、一瞬、あのむかしの木のことを思った。


ヒメオドリコソウの場所に差し掛かったが、そこのヒメオドリコソウを今年見た記憶がない。今年はその時期にここを通らなかったのか、通ったときに忘れていたのか。もう生え残っている時期ではない。ヒメオドリコソウではなくエノコログサが明るく並んでいた。


かろうじて彩雲になった青白いさざなみの雲。その手前の、大きく伸び上がってかすかに橙に照らされている積乱雲。先へと続く道。梅雨も終わりそうだ。


2019年7月16日

道の記


作業着の方が自動販売機で飲み物を買っていた。このあたりで新築工事があったかなと思いながら道を行くと、駐車場になっている空き地の草が刈り倒されていた。駐車場の入口にひさかきだと思う小さな木がいて、きのう見たときはなぜか葉が無くなってしまっていて下のほうだけ新芽が出ていた。その木のところは何も刈られていなかった。駐車場の端でエノコログサが少しだけ残って、穂を掲げていた。


交差点のランタナも刈られていた。育てられているのではないようだ。でも新芽がたくさん出ていた。じき、茂り始めることだろう。


ここでかがみ込むと後ろに並ぶお家のどこかから見られているかもしれないと思いつつ、工場のフェンスの下のトウバナをかがんで見る。花穂がけっこう高い。このあたりのトウバナとしてはよく伸びている。見終えて立ち去るときには後ろのことはすっかり忘れていた。


2019年7月14日

道の記



住宅地の中の田んぼの脇に台付きの小さな花壇が作ってあり、いろいろな花が植え替わりながら咲いている。秋には実った稲の穂と花壇の花が競演していた。その田んぼが埋め立てられていた。花壇はポーチュラカやゼラニウムが咲いていた。花壇の下で、以前から田んぼの畦にいたコモチマンネングサが花を咲かせていた。


伐採木置き場のいちょうの切り株は、たくさん出ていた芽が刈り込まれたようで、数本のひこばえが伸びていた。切り株は草たちに取り囲まれていた。タチスズメノヒエが早くも穂を高く伸ばしていた。


道の記


柿の木や樫の木の切り株は元気に葉を茂らせていた。まわりの草がばっさり刈り取られたようだが、切り株そのものには手を出していないように見えた。柿の木は若い芽を付けていた。


足元にイヌビワの実がたくさん落ちていた。上は擁壁になっていて、その上にいろいろな木がこぢんまりと生えている。見上げたがそのときはイヌビワの木を見つけられなかった。帰りにふたたび見上げたら、すぐ上にやや大きめのイヌビワの木がいた。さっきいなかったはずはないので、私がやはり植物を見分けづらくなってきているのだろう。イヌビワは毅然とも平然とも言えそうな風情で樹冠を張り出していた。


道の記


大くすのきの林だった丘はまわりに土留めが出来ていた。マンションの大きな広告看板が掛けられていた。最後まで残っていた大くすのきの切り株はもう見えず、少し前に撤去された大くすのきの裁断された切り株が、土の丘と工事の全体を見渡せる高みに置かれたままになっていた。以前切り株から伸びていた芽はきょうはわからなかった。


道の記


セイヨウタンポポが出ていた電柱が無くなってしばらく経つ。いま当時の電柱脇から出ている草はスズメノカタビラが2株。近くの排水溝の網の下にはカニクサなどの草が生えているが、上はもう草が生える隙間自体がほぼない。スズメノカタビラもいまは穂はない。小さく葉を広げていた。



2019年7月10日

道の記


はじめて通った去年の秋にキバナコスモスが咲いていた土の駐車場の土手で、ネジバナが数株咲いていた。ああ、ここはそういう花々の場所だったのだなと思った。ネジバナはいまだけの花穂をういういしく上へ伸ばしていた。


ふだん歩く街ではあまり見ないコスズメガヤが道沿いにぱらぱらと立っていた。隣を大きな車がときどき通って行く。道のりはまだ長かった。


畑だと思っていたけれど田んぼになっていた。空はいろいろな雲が並んでいた。春に見た道端の菜の花はもうどこから生えていたかわからなかった。


2019年7月8日

道の記


植木鉢のイヌビワが鉢ごと無くなっていたお店は、解体されて無くなっていた。小さな敷地だった。その敷地の隅に別のイヌビワが出ていたのだが、そのイヌビワは伐られていた。切り株と呼びづらいほど細い幹が残っていた。根が残っているかぎりまた伸び出すことだろうけれど、この敷地がこのあとどうなるのかはよくわからなかった。


道の記


春の小径は苗代ではなくなっていた。苗が並んでいた所にトキワハゼの花が咲いているのが見えた。


2019年7月4日

道の記


あじさいの小径を2週間か3週間ぶりに通った。あじさいの花はだいぶ緑になっていた。かわりのようにペロペロネがたくさん花をつけていた。


道の記3年


ツイッターで道の記を書き始めて3年経った(このブログに載せるようになってからはまだ2年経っていない)。自分がどのように道端の草や木を見ているか、その一端でも書ければと思って、そして道端で草や木がどのように生きているか、その一端が残せたらと思って、書き続けてきた。このまま書き続けることに意味があるのかどうかよくわからないが、もうしばらく続けてみようと思う。


2019年6月30日

道の記


目が疲れていたので、眼鏡を外して歩いた。足元の草は種類が見て取れるものもわからないものもある。でも、草のほうでは自分の「種類」をいちいち気にしていないにちがいなく、そうであれば私のほうでも過度に気遣う必要はないのだろう。


そう思いながら眼鏡無しで歩いていて、植木鉢のイヌビワが枯れていたお店の前を通りかかった。鉢がどうなっているか見たかったので眼鏡を掛けたが、鉢は無くなっていた。引き取られたのだろう。よく見るとそのお店の壁に、解体工事の告知札が掛けてあった。


まだ新しい道のまだ新しい街路樹に、細かな白い花がたくさん咲いていた。歩いていると雨のように花が落ちてきた。すでにたくさん降り積もっていた。工事中の道の対岸には、同じ種類のように見えるさらに新しい木々が植えられていた。


よく通る道のクロガネモチの街路樹が並んでいるなかに、空いている植え枡があった。土が掘り返されて均された後のように見えた。1本1本の木を見ていなかったのだと気づかされた。


以前手入れをしている人を見かけた歩道の植え込みのヤナギバルイラソウは、すでに花が咲き始めていたようだった。いまはしぼんでいるが、この雨が上がったら、花もまた開くことだろう。


2019年6月28日

道の記


前に初めて見たとき踏まれそうに思った足元のすみれは、あまり変わらずにいた。花を終えた後のようだった。


街路樹いちょうの切り株が新しいいちょうの木に植え替えられた場所の手前で、別のいちょうの木が切り株になっていた。ひこばえがしっかり生えていた。新しい木はまだ新しさを残したまま健やかに立っていた。


2019年6月23日

道の記


小さな入口のお店の前の小さな植木鉢に以前からイヌビワが育っていた。たぶん、自然と生えてきたものをそのまま育てていたのではと思う。そのお店がしばらく前に閉店した。イヌビワの鉢はそのままになっていたが、先日その前を通ったとき、イヌビワが枯れていた。まだ生きているかもと思って水を遣りたかったが、自分のものでも公共のものでもなく、まだだれかの持ち物かもしれず、何もせずにその場を去った。きょう通ったら、枯れた枝が切られて無くなっていた。鉢に水を遣った跡があった。

そのすぐ近くの、道端から生え出ているイヌビワに、先日だれかが水を掛けた跡があったのだった。


同じ道のその先の、花壇の脇から出ているイヌビワは、伐られていた。そのイヌビワは過去に何度も伐られた。また伸び出てくることだろう。


道の記


大通りの交差点を、ツマグロヒョウモンがこちらから向こうへとひらひら渡って行った。向こうへ渡るとあきらかに決めて飛んでいるように見えた。


行きがけに2つ信号のところのオニタビラコが道の対岸から見えなかったので、帰りに道のそちら側を歩いた。その一帯の草は草刈りか草取りに遭ったようだった。ねこじゃらしのように見える葉がいくらか残っていた。草取りの後に伸びてきたのかもしれない。


道の記


大くすのきの林だった場所は、土がもとの丘の高さよりもさらに高く盛り上げられていた。その土の向こうに、木の太い根が宙へ向かって伸びているのが見えた。くすのきの切り株が横になっているのだろう。ショベルカーが作業を続けていた。くすのきの香りはわからなかった。


1本だけ出ていたひこばえが刈られた桜の切り株は、新しい葉を1か所からたくさん出していた。枝を高く伸ばすより横に広げる様子だった。


ポプラの木が並んでいた公園にひさしぶりに立ち寄った。再整備されて、以前の姿はトウカエデ1本だけがとどめている。ポプラがいたあたりでまわりを眺めた。おたふくがたくさん植えられている。ポプラの姿はまったくなかった。公園はこどもたちや家族連れの方々でにぎわっていた。ボールが飛んできたので、投げて渡した。

公園を出た所に以前から小さなエノキとセンダンがいる。彼らは元気でいる様子だった。挨拶をして立ち去った。


ビル街のただなかの小さな野草ガーデン。ホタルブクロの白い花が細々と咲いていた。きょうはこれ以上歩けなさそうだった。ホタルブクロのつぼみにそっと触って、街を離れた。


2019年6月17日

道の記


きのう通りかかった公園への道をまた通ることになった。公園の桜を見たら、きのう見たひこばえが無くなっていた。草刈りに遭ったようだった。切られた跡があった。桜は伸び直そうとしていたのに。なんとも言えずそこを離れようとして、ふと、幹の下のほうに小さな芽を見つけた。これから葉になろうとしているようだった。

いつか、この桜が生きていることがここの人たちの目に留まりますように。


道の記


建物の基礎工事らしきものが進められていた大くすのきの林は、思いのほか大きな構造物が建てられつつあった。脇の歩道の植え込みは剪定されていた。先日見た、くすのきやえのきの幼木も切られていた。ひざ丈くらいになったえのきのそばに、同じ丈のマメグンバイナズナが寄り添っていた。


通りかかった公園に桜の木が並んでいた。1本、葉をつけていない木がいた。冬芽のまま止まっている。幹の表面に白い斑が出ていた。頭を下げて立ち去ろうとすると、幹の反対側のふもとから、たくさんのひこばえが伸びていた。私は元気だ、と、訴えかけてくるように感じた。


山は呼んでいるようだった。苦しかったらこちらへおいで、と、こちら側にいるすべてのいのちに優しく呼びかけているような気がした。登ろうとすれば険しいはずなのに、そこで生きていけるのもすべてのいのちがそうではないはずなのに、そう聞こえたのはどうしてだったろう。


2019年6月10日

道の記


オオキンケイギクのような草が交差点の隅に1株出ていたのを知っていたが、たしか昨年に無くなった。抜かれたのではないかと思う。思い出してそちらの道を行ってみた。オオキンケイギクは出ていず、その位置にコメツブツメクサが小さく陣取って花を咲かせていた。


***

春の小径を通った。ホトケノザなどが出ていた場所は苗代になっていた。水が少し入れられ、まだ細かな稲が密にかたまって立っていた。トキワハゼの花が水に浸かっているのが見えた。

その少し先では、梅の木がたくさんの実を落としていた。通り過ぎたときに、梅のあまい香りがさっとした。

この小径を知ってまだ1年にならない。いまの季節のこの小径の姿を知って、またすこし、この小径に近しくなれた気がする。


2019年6月9日

道の記


宅地になるほうの大くすのきの林だった場所は工事が進められていた。きょうは道の対岸のほうを歩いた。対岸には濃い緑が残り、足元にはキカラスウリらしき花が咲いていた。以前はひとつにつながっていた林なのだろう。しかし向こう側にいたボタンクサギはこちらでは見つけられなかった。


事業所の前の植え込みの淵に、まだだいぶ小さな猫のこどもがいた。こちらをおびえて見ている。寄って見ることはせず、そのまま歩いた。頭だけを動かして私のほうをさいごまで見やっていた。道の行く手にはいつものホリホックが静かな花を咲かせていた。


夕日を真っ向から受けている山並みを背に、反対方向の山並みを見ながら帰り道を歩く。飛行機雲が何本も流れて、いくつかはもうただの雲になっていた。ヒメジョオンや、たぶんヒメムカシヨモギだと思う草や、ヘラオオバコの大きな株が、歩道の脇にめいめい暮らしていた。


疲れてこの景色のなかに座りたいと思い、疲れたけれどこの景色をどこまでも歩きたいと思った。山も空も遠いままここにあった。


2019年6月8日

道の記


高速道路下の歩道から緑地帯を抜けるけもの道ができていて、その脇に椿などの木々が茂った小さな一角があったのだが、先頃通ったときにそこが切り開かれて防水シートのようなものが敷かれていた。きょう、歩道を逸れてそのけもの道を通ってみた。ネズミムギやチガヤやヘラオオバコが両側に茂っている。防水シートの隙間からもいろいろな草が葉をのぞかせている。しかし木の芽はわからなかった。けもの道は鉄工所の前に出た。


かかちぃ、かかちぃ、と鳴き声が聞こえる水際の鳥を声だけで知っていたが、葦のような高い草が茂る一帯の1本の草の茎の頂に、鳥が1羽留まってそのように鳴いていた。遠目ではすずめに似ていて、頭から背がまだらの茶色、腹が白に見える。初めて声の主を見た気がする。きょうの運はこれで使い果たした気がした。


道の記


桜の切り株の、1枚だけ草刈りを生き延びたひこばえの葉のとなりに、小さな芽を見つけた。


道の記


バイパスを横切る信号待ちのあいだ、歩道の脇の空き地のクズを見ていた。クズは広がるに任せていて、電柱にもよじのぼっている。歩道の路面にも木の枝のようになったつるが横たわっている。そのつるの上を、蟻が行進していた。通り道になっているようだ。そろそろバイパスの信号が変わりそうだった。


2019年6月7日

道の記


いろいろな行事で使われてきた大きな体育館が、取り壊しの工事中だった。たまたま入った道から、その様子が見えた。階段座席がむき出しになっていた。思い出はずいぶんむかしでもう明瞭には思い出せなかった。


植え込みで学校帰りのこどもさんがツツジの下をのぞき込んでいた。何がいるか尋ねたかったが通り過ぎた。


駅の前の大きな木々や草が茂っていたロータリーがなくなって車の待機所になっていた。待機所はがらんとしていた。


ここの排水溝のくすのきは無事だった。網から少し出ていた。学校帰りのこどもたちが少し遠くに見えた。


道の記


戸建て住宅地の脇に原生林のような林が広がっていた。公園だと地図には書いてあるが、どこかから入れるようには思えなかった。しばらく歩いて、小さな入口があった。山道だった。展望台への道があったので寄ってみた。木製のアスレチックのような展望台だった。下から犬の散歩の方が上がってこられて、犬が率先して展望台へと向かっていった。


少し遠回りをしたら、思いのほか道が長く、しだいに歩けなくなった。電車で帰ることにした。高架駅の下の崖の下を歩いているときに、横から何かの草がたくさん伸び出ていたのを覚えているが、何の草だったか思い出せない。それだけ疲れていたのだろう。


2019年6月6日

道の記


こどもさんたちが袋小路で遊んでいた。そのとなりで、もう他所では終わって見かけなくなったナガミヒナゲシの花が、ひとつだけ小さく、色褪せながら咲いていた。


2019年6月3日

道の記


大くすのきの林だった場所は、重機でさかんに丘が切り崩されていた。大くすのきの切り株は見えなくなっていた。ただ、くすのきの香りだけがしていた。

ふと足元を見たら、排水溝の網からくすのきの幼木が葉を出していた。若葉を広げつつあった。大くすのきの林のどれかのくすのきの、こどもにちがいないと直観した。そっと手を触れた。


***

もう1か所の大くすのきの林は、宅地の基礎を造っていた。敷地の中のほうはもう緑色はなく、敷地の端にいたボタンクサギなどの植物も見当たらなかった。しかし歩道の植え込みに、くすのきや、えのきの幼木が育っていた。かれらも、林の木々のこどもにちがいなかった。

すべてを見てきたはずの山々が、遠く、ただただ青かった。


2019年6月1日

道の記


この前に立ち寄ったとき下校中のこどもさんから警戒のまなざしで見られた公園は、時間が早いためか人は誰もいなかった。ひと休みした。鳩たちが休んでいた。餌をねだることもねだられることもなく、めいめいゆっくりした。


お店の小さな植え込みのクスノキは、切られた後なかなか動きがない。少しひさしぶりにその道を通ったのだが、芽は出ていなかった。


自動販売機裏側の柿の木は元気にしているようだ。つややかに葉を茂らせていた。


ここで休もうと思っていた路地の途中の小さな公園は、こどもさんとお母さんでいっぱいになっていた。紫陽花が美しく咲いていた。通り過ぎることにした。


道に大きく迫り出した木々があるお家の、その木陰を通ると一瞬涼しかった。ああ涼しい、と思わず声が出た。横を向くと木の下でお家の方が何か木の手入れのようなことをしておられた。


大通りでテレビ局の方にインタビューを申し込まれたが、そのテーマでいま思いつくことがなかった。残念そうにしていらっしゃったが別れた。まだ日は高かった。その先の道もおたがいに長そうだった。


2019年5月31日

道の記


いま横を追い抜いていったこどもさんが、角を曲がったらはるか彼方に見えた。もし追いつこうと思って走ったとしても、もう追いつかない。その彼方までのあいだの舗道の上に、何本ものケヤキの影が斜めに差していた。


水路が埋められてしまったのだと、その場所に差し掛かって思い出した。舗装を免れたマンテマは花を終えていた。ヒメジョオンがたくさん花をつけていた。しゃがんでヒメジョオンの花を見ているあいだに横を通り過ぎていった人が、立ち上がったときにははるか彼方にいた。


桜の切り株の場所は草刈りが入った様子だった。切り株が1本伸ばしていた小枝が切られて地面に横になっていた。その小枝が出ていた切り株の脇のところに、葉が1枚、切られずに残っていた。


ここからまた、始めるだろう。


道の記


電柱ランタナは、どうもまた刈られたようだった。かろうじて1本だけ小枝があった。とても小さな芽がいくつかあった。


電柱ねこじゃらしは今年も出ていなかった。以前の枯れた茎が路面に残っていた。


道の記


昨日歩いた道をまた歩く。交差点の向こうの角にカラムシなどの草が茂っていて、そちらへ渡ろうかと思ったが、信号が点いているほうを渡った。正面ではコンクリート擁壁の高い位置から、イヌビワの幼木が待っていたかのように迫り出していた。


この方向へ行くと近道ではないかと、小さな路地に入った。どこへ出るか出ないか歩いてみないとわからない。道はくねってさらに狭くなった。古い煉瓦塀のあいだを歩いていくと、中庭のありそうな大きなお宅の門構えがあり、その脇にナデシコの仲間の花がずらりと並んでいた。道はほどなく知っている場所へ出そうだった。


だいぶ前に訪ねた、小さな川のほとりに立ち寄った。そこは大きなセンダンの木がいたのだが、川岸を歩道にする工事で伐採されたのだった。前に訪ねたときにその向かいのお店に寄って、センダンの話を伺った。お店には在りし日のセンダンの姿が飾られていた。そのお店は閉じられているようだった。川岸の歩道の柵に、センダンの写真札が前の時と変わらず掛けてあった。


道の記


排水溝の中にくすのきが生えている場所を数か所知っている。そのうちの1か所が、しばらく前に通ったときに敷地の工事を始めていてどうなるのかと思っていたが、排水溝も工事されたようで、中にはただ水が溜まっていた。


高台の竹林の向かいの雑木林だった場所は、そこに残されていた木もなくなって、しばらくそのままになっていたが、今日は造成のような工事が行われていた。敷地の中には緑味は見えなかった。敷地の外の歩道の隅に、短く、竹の茎が伸び出ていた。


2019年5月29日

道の記


大くすのき林だった場所の大くすのきの切り株は、動かされたのか丘の形状が変えられたのか、丘の向こう側の脇に移動していた。丘の上は重機が陣取っていた。

切り株は遠目では乾いているようにも見えたが、小さなひこばえを従えていた。もう大くすのきはそびえ立ってはいなかった。ただ、ひこばえは空を目指していた。


伐採木置き場のいちょうの切り株は、この前のときよりさらにたくさんのひこばえを出していた。ひこばえは林とか森というより、密林のようだった。切り株は傾いたまま置かれているが、ひこばえはここでも、空を目指してまっすぐだった。


幹を伐られた柿の木も、つややかな若葉をたくさん茂らせていた。隣の樫の木の切り株も、ヤブガラシに囲まれながら、色の薄い若葉を広げていた。


2019年5月28日

道の記


光化学オキシダント注意報が発令されている中での外出。空がぜんたい薄白く照っていた。遠くの山が見えているからだいじょうぶ、と自分に言い聞かせて歩いた。歩いているうち、だんだんと空の青が戻ってきた。橋の上は風が流れていた。川をのぞき込みながら歩く人とすれ違った。


高速道路のガード下の植え込みにはどうも何も植えられていないようで、かわりにチガヤがたくさん穂を立てていた。あるところからチガヤの穂がさらに増えて、一面チガヤの穂の白になっていた。私の頭の中もチガヤの穂の姿でいっぱいになりかけていたところ、アレチハナガサが1株、大きく育って紫の花の穂を掲げていた。



2019年5月24日

道の記


クサギのトンネルだった場所では、クサギと同じく復活している途中らしき枝に、ぽつぽつと花が咲いていた。スイカズラのように見えた。


草の世話をしていると、こどもたちや通りすがりの方々が声を掛けてくださるのがありがたい。体調を崩しているなか、今日もいただいた言葉のおかげで、長い坂道を登って帰り道を行くことができた。イヌムギの穂がすっかり白くなって坂の路面に散っていた。


道の記


ビル前の保護されている大銀杏は今年も若葉を出していた。いずれ融合するようにと内部空洞や周りに接するように若木が植栽されていて、その木々に囲まれ、古い幹から小枝を伸ばして、そこに葉を茂らせていた。道を急いでいたのでそれだけを見届けて去って行こうとしたら、何か白いものが見えた気がした。振り返って木のそばに戻ると、隣のヤマボウシの木が少しだけ花を残していたのだった。


2019年5月17日

道の記


アキノノゲシなどの草が生えていた空き地にマンションのショールームが造られていたが、そのショールームがなくなっていた。空き地は一部の舗装を除いて更地になっていた。敷地のまわりにコマツヨイグサなどの草が小さく生えていたが、アキノノゲシは出ていないようだった。


幹を半分伐られた公園のヒマラヤスギは、樹冠が茂っていた。ちょっと見たところではそういう木だと見えるようになった。たくさんのこどもたちが遊んでいた。公園の端でおとなの方がひとり、鳩と話しておられた。


クサギが伐られたクサギのトンネルは、クサギが復活しつつあった。伐られたところから枝を数十センチ程度伸ばして葉を付けていた。トンネルにはまだまだならなさそうだ。トンネルだった一帯の端で、同じく枝を数十センチ伸ばした種類のよくわからない木が、小さな白い花を咲かせていた。


2019年5月11日

道の記


施設の休憩所から外の公園を見ていたら、小さなこどもさんが虫取り網を振り回していた。網の柄で道の隅にたまっている落ち葉をかなり荒っぽくかき回していた。もうすぐ帰りにそこを通るけれど、何か声を掛けるか迷った。帰りにもこどもさんがいた。そのまま行こうとしたら、こどもさんのほうから「こんにちは」と声を掛けてきた。優しい声だった。「おかあさんそこにおる…」と階段を上がっていった。そちらが夕日のほうだった。


大くすのきの林だった場所は、大くすのきの切り株がほぼ掘り上げられたようで斜めに傾いていた。脇にひこばえを従えたままだった。丘の脇の芽を出していない切り株は、傷をたくさん負っていた。この前通ったときに放置してあった抜かれた切り株は、驚くほどたくさんの葉を茂らせていた。丘はだいぶ削られた。この先さらに削られるのだろう。

道を渡って大くすのきの林の場所を見た。夕日が、削られた丘の向こうに沈むところだった。風向きは横からだったが、道のこちら側までくすのきの香りがしていた。空は淡く明るかった。くすのきの切り株たちは私には、なおいっそうしっかりと、空にそびえ立っているように見えた。


道の記


夕空では雲が段々畑になっていた。


歩道を歩いていて、どこかからカネタタキの鳴き声がした。もう鳴き始めたのか、と思った。高いところから、チッ、チッと声がする。街路樹の背の高いモミジバフウか、隣のアパートのどこかだろう。アパートをじろじろ見回すわけにはいかないので、モミジバフウを少し仰いで、先へと歩いた。


唐実桜や柿の木がいた線路際の一帯は新しい土砂が入れられ、以前の様子はほとんどなくなった。敷地の端にぱらぱらと、花を終えたナガミヒナゲシが頭を並べていた。


2019年5月6日

道の記


たまには、脇目も振らずに歩くというのもいいかもしれない。と思いながら早足で歩いていたら、横からヤブガラシの蔓が目の前に思いっきり伸び出ていた。


何年ぶりかに歩いた道は、思っていたのと違う所へ出た。よく歩いた町の隣町だがこのあたりまではあまり来なかった。スーパーマーケットの横のはじめて通る小道を抜けて、知っている通りに出た。途中、ネズミムギのように見える草が遠目に日に輝いていた。


残された桜の木はすっかり緑になっていた。敷地を歩行器で周回なさっている方がおられた。うつむいて黙々と歩いておられる。話し掛けづらかったのでそのままあおあおとした桜を仰いでいると、桜の研究をしてるんですか、と話し掛けられた。少しお話しした。歩けなかったけれどここに来ると歩ける、緑はいいですよ、とおっしゃっていた。日暮れまでもう少し時間があった。その方はまた歩き始められた。桜も一身に初夏の光を浴びていた。


道の記


春の小径は草が刈られていた。次の春が来る前にきっと別の季節が来るのだろう。


こんなにまっすぐ続く道をひさしぶりに見た。あの果てまでこの暑さの中、歩けるのだろうか、とにかく一歩一歩だ、と思って歩いて、15分で果てにたどり着いた。麦の穂がさらさら音をたてて揺れていた。


この小径を歩くのもたぶん10年ぶりだ、と思いながら、むかしながらの家々に囲まれた小径を歩く。途中、イチイガシの大木がいる。よく茂っていて元気そうだった。この道を歩かなかったこの10年のことを思った。


絵を見た帰り、川土手を歩いた。広々と景色が広がる。向こうの山のふもとまで歩く。風がだいぶ涼しくなっていた。風に吹かれて、むかしこんなふうに見晴らしのよい丘を風に吹かれながら通ったのを思い出した。河川敷でこどもたちが遊び、おとなたちが走っていた。山と空はさっき見た絵に似て淡い色あいになっていた。


2019年5月5日

道の記


実桜の路地をひさしぶりに通った。赤い実が下がっていた。工場は休日でも仕事のようだった。


見たことがない花を路傍で見かけて写真を撮ろうとして、荷物の中に財布がないのに気づいた。この先さらに歩いていたら戻るのがたいへんだった。花のおかげだ。振り返った。花はさっきと変わらず咲いていた。


道の記


昨日大通りを通ったときに、シロツメクサで編んだ飾り物がビルのふもとの歩道際に落ちていた。気になったけれどそのまま通り過ぎた。今日たまたまその場所近くに来たので、その場所に寄ってみた。シロツメクサの飾りは同じ場所にあった。少し踏まれた様子だった。近くの植え込みに移した。小さな手向け花のようになった。