道ゆく先々での、木々草々花々などさまざまの出会いとその後を、一筆箋に綴るつもりで。
From the Wayside: about my acquaintances of trees, flowers, weeds and others (written in Japanese)
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※ 現在、機器の問題でブログの更新がやや難しくなっています。最新の記事はツイッターのほうに投稿し、このブログには可能なときに後追いで掲載するようにします。1日の記事が多いときにはブログに一気に投稿する場合があります。2020年9月18日(2021年6月1日修正)
2016年7月30日
道の記
前に書いた場所とは別の道で、やはりクスノキの若木が排水溝の網から伸び出ているのを見つけた。排水溝はいろんな草が生えているのをあちこちで見かけるし、どこかでアカメガシワを見たような覚えもある。新しく見つけたクスノキの場所も土が薄そうな場所だが、どうあれクスノキは生きていくだろう。
道端というか交差点の一角にランタナが大きく茂っているちょっとしたスポットがある。といってそこでランタナを眺める人をこれまで見かけたわけでもなかったが、きょうは一眼のカメラを構えて熱心にランタナの花をのぞきこんでいる方がおられた。その方の様子を自転車を止めて見ている方もおられた。
道の記
"What a wonderful world"を小さく口ずさみながら歩いていたら、商店街のお店から"What a wonderful world"が流れてきた。
聴け、ということだったのだろう。
2016年7月29日
道の記
オヒシバが出てきたセイヨウタンポポの場所(道端の舗装隙間)をのぞいてみたが、セイヨウタンポポの葉はまったく出ていない感じ。引き続き様子を見ようと思う。
思いがけない場所でキツネノマゴを見かけた。たしか埋め立て地のはずで、近くを見回したがほかにキツネノマゴも出ていないし、ほかの在来の草もぱっと見では見当たらない。歩道の隅にぽつんといて、3つほど花を咲かせていた。暑いけれども西日は当たってこない。元気で、と念じてその場所を離れた。
ラベル:
オヒシバ,
キツネノマゴ,
セイヨウタンポポ,
セイヨウタンポポの電柱,
埋立地のキツネノマゴ
2016年7月28日
道の記
ある道端の舗装の隙間にもう何年も前からセイヨウタンポポがいて、おりおり地上から姿を消しながら復活を繰り返している。そのタンポポもなぜか目にとまって見続けている草のひとつ。今年の春も花を見たと思うのだけれど、きょう見たらオヒシバがとってかわっていた。狭い隙間から旺盛に伸びていた。
この近辺ではオヒシバはあまり見ないけれど…と思って歩いていたら、その先の道端にまたオヒシバが生えていた。そこも隙間しかない場所で、やはり旺盛に茂っていた。オヒシバの前に別の草がいたのかもしれないが、思い出せない。次に通るときには、ああここはオヒシバの場所だと思い出すかもしれない。
ラベル:
オヒシバ,
セイヨウタンポポ,
セイヨウタンポポの電柱
2016年7月27日
道の記
ある町のある通りの、私が出歩く時間帯だと開いていないお店の前に、たぶん放置されているのだと思う小さなプラスチックの植木鉢があり、そこに草が生えている。交通量が多く路側帯しかない道なので急いで横目に見るだけだが、なぜか覚えていて、その通りを歩くたびにちらっと見ている。
先日見たときはカタバミが生えていた。少し伸び上がっていたが、オッタチカタバミではなく在来のものではないかと(なんとなく)思う。
別の町の別の通りの、やはりなぜか私が通るときには開いていないお店の前に、大きなプランターが置いてある。ここもたぶん何か花を植えておられたのだと思うが、いまはオニタビラコが居着いていて、ときどき花を咲かせている。ここも通るたびに思い出して横目で見ていく。
先日も花を咲かせていた。あたりにほかの花は見当たらず、オニタビラコのその花がその通りをちいさく彩っていた。
2016年7月26日
道の記
柿と梅と桜といちじくが植えてあった線路端の小さな緑地が工事でなくなって1年が過ぎた。いまはこの先の工事を控えて砂利が敷いてあるが、そこからぽつんぽつんと柿が芽を出している。地中のちぎれ根から伸び出したのだろう。まわりの草とともに青々としている。
知っている方がこの緑地の木々を以前から見ておられて、そのときどきの花を教えてくださっていた。先日その方からも、あそこに柿の葉っぱが出ている、とお話をうかがった。がんばってるよ、と。
柿の木は伸び放題に大きかった。手入れをなさる方々も代が替わっていったのだろう。実はいつも収穫されずに道に落ちたり鳥のえさになったりしていた。それでも道を通る人たちのなかに、その木の1年1年を見守っていた方がきっと(ほかにも)いらっしゃっただろうと思う。梅も桜もいちじくも。
金網の向こうで伸びゆく柿の芽も、道からご覧になっているどなたかがいらっしゃることだろう。
2016年7月25日
道の記
駐車場のすみっこに在来イヌノフグリが出てくる所があったのだが、先日通ったらすみずみまで舗装されていた。アスファルトの隙間から出てくる可能性もあるとは思うけれど、とても厳しい状況に見える。イヌノフグリはその近くの場所にも出ていたのだが、そちらは早くに舗装されてしまった。
やはりイヌノフグリが毎年出てくる別の場所を通った。エノキグサが生えていた。最近あちこちでエノキグサが目にとまるようになり、ああエノキグサの季節だな、と、あらためて思った。春の草が留守のあいだ、自分たちがこの土地を守る、と、エノキグサが宣言しているような気がちらっとした。
丘陵住宅地にぽつんとある公園。遊具はなく、林と草地が広がる。その町に来るとちょっと立ち寄って、そのときどきの草を見たくなる。きのうはイヌビエやタチスズメノヒエがなびくかたわらで、ヒメクグやテンツキの仲間が穂をつけていた。栗の実が落ちていた。この夏初めてのツクツクボウシを聞いた。
暑いけれどもかすかに秋の呼び声が。あとひと月もすればイヌノフグリの発芽が始まる。
2016年7月24日
道の記
道路脇の排水溝のようなところからクスノキの若木が伸びているのを昨年見つけた。ときどき通る道なのでときどき寄って見て挨拶していた。いつも元気だった。1か月ぶりぐらいだと思うが、きょう通ったら枯れていた。底に溜まっている土が乾いていた。その土から何か草が小さく生えつつあった。
伐られて切り株だけ残っている神社のクスノキはまた芽を出していた。これで何度目になるだろう。芽を出すたびに摘まれているがあきらめない。しばらく動きがなかった隣のムクノキ(だと思う)の切り株も、そっと芽を伸ばしていた。
比較的最近知ったまちの小径の道端にタツナミソウやトウバナがいる。タツナミソウは植えてあるものが増えたような雰囲気もあるが、トウバナはそうではなさそうで、ほかのいろいろな草が生えているふもとでしっかり花を咲かせている。たびたび通る道ではないが、通ると少し元気が出る。
道端の木が大切にされている小径や、草々に寛容な小径を歩いていると、しあわせな気持ちになってくる。
2016年7月23日
道の記
新聞の電話投稿欄に、大通りの中央分離帯に草が茂っていてみっともないみたいな趣旨の声が掲載されていた。見てきたが、クロガネモチみたいに見える樹木の下にアベリアやよくわからない低木が連ねて植えてあり、そのところどころからオオアレチノギク・ヒメムカシヨモギらしき草が伸び出している感じ。
中央分離帯をすみずみ見て歩くわけにいかず、沿道と横断歩道から見るだけだったが、カラスウリやメヒシバやケヤキの幼木なども生えていて、沿道の植え込みよりも多様な印象を受けた。手入れが行き届きにくいのかもしれないが、それがむしろさまざまな草が生き延びるのに好都合なのかもしれない。
2016年7月20日
道の記
歩いていて突然となりにバナナ(芭蕉)が現れた。こんなところにバナナ!と辺りをよく見たらポケットパークみたいな小さな公園だった。公園にバナナが植えてあるのも珍しいように思う。人は誰もいず、バナナが夏の訪れを歓迎するかのようにしずかに茂っていた。
公園のバナナと言えば、むかしよく遊んでいた公園に、いつごろからかバナナが植えてあった。桜がきれいな公園だった。公園が駐輪場に変わってからもバナナや桜は敷地の隅に残っていた。その駐輪場がまた緑地になると聞いて喜んだのだが、桜もバナナも伐られてなくなり、いまは空地のままになっている。
バナナが伐られたその日にちょうどそこを通った。花が転がっていた。現場の方に頼んで花をいただいて帰った。どうかしたら実らないかと思って水差しにしたりした覚えがある。バナナは根が残っていて、しだいに復活していたが、整地工事の際に完全になくなった。緑地ができるのはまだ先のことのようだ。
保存を望む声も上がっていたのではと思われる、ちょっと珍しい様式の住宅が取り壊された。以前からそこにいろいろな草が生えていて道から見ていた。敷地内の起伏を残して更地になった。ほどなくエノコログサが生えてきて、あっというまにねこじゃらしの段々畑になった。きょうは夕陽に照らされていた。
エノコログサももとからそこにいた草だった。
2016年7月19日
2016年7月14日
道の記
そのお家はみどりがお好きな方が住んでおられて、道からも植木のほかカンナの花などが見えていた。そこの敷地境界のブロック塀の隙間からタツナミソウが生えていた。たぶんお庭に植えておられたものが出てきたのだろう。まちなかでタツナミソウを見ることもほかになく、花の頃など気に掛けて見ていた。
その方がしばらく前に亡くなられ、お家にご親戚かどなたかが入っておられたようだったのだが、植木がばっさり伐られ、それからしばらく経って更地になった。ほどなくマンションの建設工事が始まった。ブロック塀は敷地境界の部分だけ残されていた。
タツナミソウもそのまま生えていたが、あるとき姿がなくなった。ブロック塀の内側に残っていた土が削られた様子で、タツナミソウはその土に根ざしていたのだろう。しばらくはブロック塀の下にドクダミも生えていたが、とうとう塀も撤去され、草もなくなり、新しい塀ができた。
すぐ近くに、やはり草花がお好きな方のお宅がある。そこにタツナミソウやドクダミやほかの草花たちが逃げ込んでいって、かくまってもらっているのではないだろうかと、少し思っている。道から見えなくても、草のこどもたちがまちなかのどこかで生き延びて、世代をつないでいってくれたらと思う。
2016年7月13日
道の記
昨年のいまの時期、とおりみちの駐車場脇に1本のアレチノギクが生えていた。なぜそのアレチノギクに目が留まったのかわからないが、その道を通るときにいつも見ていた。夏に入って乾燥が続き、しだいに枯れ始め、やがてすっかり枯れ切った。
枯れ切ってからもアレチノギクはそこに立ち続けていた。綿毛が茎に残っていた。立ち枯れたままアレチノギクは時を経て、大風の吹いた夜のあとだったように覚えているが、姿がなくなった。
その道を通ることが少なくなって、しばらく前、ひさしぶりに通った。そこにアレチノギクが生えていた。こどもかどうかわからない。駐車場の脇で、丈を伸ばさずに、去年の景色とそっくり同じようにしていた。
そして次の夏が来る。
思うこと
自分は、亡くなったひとのかわりにこの世界を見ている、と思ったことが何度かあった。この景色をあのひとは見たかったに違いない、それなのにあのひとではなく自分が見ている、そんなふうに思って。
いまではそういう「かわりに」はできない、と思っている。自分は自分しか体験していないしかたで「この世界」を生きている、ほかのひとはそのひとの「この世界」を。そして、
もし死んだあとにすでに亡くなったひとたちと会うということがあるなら、私が体験した「この世界」を、私が見た「この世界」のさまざま、出会ったいろんなひとやものやものごとを、そのひとたちに話したり聞いてもらったりできるだろうか、と思っている。
そういう意味で言えば会いたい木も会いたい草もいる。
道の記
たぶんむかし線路が通っていたのだと思うが、ほぼ崖と言ってよさそうな最大何メートルかある段差の下に住宅が並んでいて、法面の真下にいろいろな木や花が植えてある。先日通ったとき、その隅にセイバンモロコシが群れて生えていた。そのなかの1本が高々と伸び上がってここまで届きそうに揺れていた。
セイバンモロコシの穂はこれからの季節の空にはよく合うだろう。
2016年7月11日
道の記
ひさしぶりに通った住宅街がところどころ空き地になっていた。1箇所、更地になってそう経たないように見える区画で、ほかの草に混じって、紫の葉のオキザリスがぽつぽつと生えていた。お住まいだった方が植えておられたのだろう。ひとつの草になったオキザリスは、小雨のなか、清楚に咲いていた。
2016年7月10日
2016年7月9日
思うこと
ひとり、ひとつ、これ、それ、あれ、あなた、…と思うそのひとつよりも大きな何かの肩を持ったりしない。そのひとつを囲い込もうとしたり組み替えようとしたりする大きな何かのほうを大事にしたりしない。
私は、これ、あれ、それ、あなた、…と呼ぶことができるひとつひとつがあるひとりひとりがいるそのあいだに生まれて育ってきた。何を聞かされ何を読んで何を知って何を考えるようになっても、ひとつひとつひとりひとりのそのあいだにいつも帰っていく。
2016年7月8日
道の記
この聞こえる雨音は木の葉の音でもある、と思ったら、どの木の音なのか聞き分けられるのではないかと思えてきた。それで雨のなか少し立ってみた。たしかにそれぞれの木から聞こえる雨音はそれぞれに違って聞こえるが、そのなかで聞き分けることができそうに思えたのはカンナの葉音ぐらいだった。
でもときどき草木の雨音(葉音)を近くで聴いてみようと思う。
根だけになった木々にも、きのう書いたすみれにもこの雨が降りていると思う。
たぶんアキノノゲシだと思うのだが、道路のアスファルトと縁石との隙間から10cmほど伸びている草があり、先日の晴天続きのときに見たらしおれていた。以前にも同じ草(株)かどうかわからないが同じ位置で同じように伸びてしおれて枯れた草がいた。あの草にこの雨が間に合ったかどうか。
2016年7月7日
道の記
撤去工事中の街路樹の根元にすみれの葉が出ているのを見つけた。土というより、植え枡いっぱいに広がっている木の根の隙間から生えている感じ。いくつか先の植え枡では、背丈ほどの高さで伐られた木が抜かれている途中だった。すみれも、たぶんきょうのうちに、木と同じところへ運ばれて行っただろう。
その同じ通りで、10年ほど前のある夜更け、街路樹の採掘工事に遭遇した。撤去のための工事のようではなく、少し手空きに見えた方にお尋ねすると、他の場所へ持って行くとのこと。いまは木も大切だから、と。これから旅をするその木は、大きな荷台の上で街灯に照らされてしずかにしていた。
教えていただいた移植先の場所は私もよく知っている町の大きな公園だった。しばらく経って、その公園を訪ねてみた。たぶんこの木じゃないかな、と思ったその木は、枝をずいぶん落とされていながら、あの通りにいたときのように、すっくと空に立っていた。
2016年7月6日
道の記
その場所を通り過ぎ終えるときに、ああここはこの前イチョウを伐採していた道だ、と思い出した。路面の凹凸をなくす工事の一環だった。振り返ると、まだ新しく見えるアスファルト舗装の平かな歩道が向こうのほうまで続いていた。そこをなにごともなく歩いてきたのだった。木はひとつも見えなかった。
前に近くを通ったとき桜のような大木がちらっと見えた市街地の小道に入ってみた。その桜は、まだ新しい福祉施設の正面植え込みからそびえていた。まちの公園で見る古い桜よりも幹周りが大きく、この一角を残して施設が建てられたように見えた。桜のとなりには別の木が寄り添うようにそびえていた。
2016年7月4日
道の記
柿の木とちいさな畑があったはずで、地図にも書き込んであったのに、舗装されていた。照らされていたためかアスファルトの匂いがかすかにした。
ある大規模な再開発が行われた一帯、以前はすみれをぽつぽつ見かけた。先日通ったとき、わりと最近建てられたマンションの正面植え込みに、すみれが生えているのを見つけた。近くに残っていたのがやってきたのか、どなたかが採っておいておられたのか、新しく植えられたのか。
あ、ここにもすみれが、ここにも、…ということがこのところ多い。すみれはぜんぜんくわしくなく、「すみれ」と呼んですませてしまっているが、そろそろ種類を覚えていこうかと思う。
2016年7月2日
道の記
ひさしぶりにこの道を通ってみようと思って通った道で、街路樹が伐採工事を受けている途中のことがしばしばある。きょうはイチョウとモミジバフウが伐られていた。1本だけさっと年輪を数えてみたが40年ほどになる木だった。
別の道では、ひこばえが出始めていた切り株のセンダンもまた伐られていた。よく見ると株がぼこぼこしている。幹まわりが小さく、あまり大きく育ったことがないのだと思うが、これまでに何度も何度も伐られた様子。
コインパークになって5年6年ほどになる空き地。以前はアレチハナガサが丈を伸ばしてたくさん咲いていた。駐車場になってからはほんのわずかな隙間から小さく生えている。ときどき刈られて姿がなくなる。今年はどうかと思っていたが、10cmになるかならないかぐらいの丈で花を咲かせていた。
桜が見事だったお家の跡地は何かが建てられる様子。打ち込まれた鋼板のそばで、ケヤキらしき幼木が数枚の葉を広げていた。
思うこと(木の杭・まもりがみ)
むかし、北海道(道東)のどこかの道を歩いていて、路傍に古い木の杭が立っているのを見た。近くに民家など人が暮らしている様子がない所で、道標かとも思ったがなにか碑のようにも見えて、とても厳かだった。
カメラを持っていて、写真に撮りたいと思ったのだが、どうしても撮ることができなかった。杭にはなにか字が書いてあったように思うが、それを読んだかどうか思い出せない。もうどこだったかも、なんだったのかも、わからない。
でも、いまときどき思い出す。
しずかに道端に立っているものものが、なにか「まもりがみ」のように思えることがある。たぶんそのころから。木を見始めたのもそのころからで、草を見始めたのはそれからしばらくして。
(その「まもりがみ」おのおのが「まもっている」なにか(だれか)が、おのおのある(いる)のだろうと思う)
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