道ゆく先々での、木々草々花々などさまざまの出会いとその後を、一筆箋に綴るつもりで。
From the Wayside: about my acquaintances of trees, flowers, weeds and others (written in Japanese)
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※ 現在、機器の問題でブログの更新がやや難しくなっています。最新の記事はツイッターのほうに投稿し、このブログには可能なときに後追いで掲載するようにします。1日の記事が多いときにはブログに一気に投稿する場合があります。2020年9月18日(2021年6月1日修正)
2019年8月31日
道の記
長い雨が上がった。
空き地の草はのきなみ高くなっていた。ヒロハホウキギクだけが咲いていた。むしろ花を終えて綿毛になっていた。それもまた花のようだった。
道のこちら側を通ることがこのごろなかった。大きなヒメムカシヨモギが並んでいた。かと思うと、クロガネモチの木のふもとにハゼランが大きく伸びて咲いていた。待ってましたと声が聞こえた気もした。
草の世話をしている場所で、ヤブガラシをちぎって手に持っていたら、小さなこどもさんがやってきた。手にヤブランの花を持っている。どこかで摘んできたのだろう。仲間だと思ってくれたようだ。
マンションの上のほうの階に陽が当たっていた。雨が明けてまだ太陽を見かけていない。振り向いたが、建物の上に赤みがかった入道雲が見えるだけだった。
道の記
お地蔵さんは変わりなかった。いや、お社が新しくなっているような気がした。大きな木々が小さな森をなしている、その崖の真下。頭を下げて立ち去る。おとなりのお家の方が車の中からこちらを見ていたように思い、車にも小さく会釈して。
この道は帰りには通らないだろうと思いながら、切り立った崖の中を通る小さな国道を歩く。思いがけず、沿道の草はペラペラヨメナだった。ヨモギもとうを立てていた。
雨がひどくなる。列車の出る時刻までだいぶある。川土手のあずまやに入って腰掛けるとすぐ、猫がやってきた。猫が食べそうな食べ物はない。さかんに声を掛けてくるが食べ物はないと返事をするだけ。そのうち、なかばあきらめたように私のそばで座り込んで、それでもときどきにゃあと声を上げる。もう、何かねだっているのとは違うようだった。
雨の中、記念碑の場所にたどりつく。もう夜で足元もよく見えない。それでもそこに生えている草が気になってしゃがむ。ヒエガエリだと思う穂の草と、あまり見た覚えがないへら状の葉をした草。ここでも草はいつも歩く街と違うようだった。そこを離れて駅へ向かう繁華街の花壇で、同じへら状の葉の草を見た。花として育てられているようだった。
道の記
いつもの生活範囲や、1年に1度くらい来る範囲をさらに離れると、街の中の草がもう違う。見たことがない種類の草がふつうに生えている。この途中下車した駅前の植え込みも、むぐらの仲間のような知らない種類の草がぽつぽつ生えている。少し見ていたかったが、乗り継ぎの旅なので時間がわずか。心で手を振ってその場を離れる。
バスの休憩で降り立った場所も、知らない種類の草がいっぱいだった。そちらを見るのにいそがしくしてしまって、ブタナが咲いていたけれどさっと見るだけだった。
おおよそ6年ぶりの道。たしかこの道だったような…と、先を進むとどうも違う。振り返るとあざやかな花が敷地の角に見える。あ、あの角を入るのだったかもしれない。戻ってみるとたしかにそのようだった。
岩穴に立ち入れるようになっている。つっかけに履き替えて岩の上を歩くと、足元はトキワハゼの花だった。洞穴に入れるのは入れたが足がつるつるすべって怖い。ひっくり返らないようにおそるおそる脱した。大きなゆりの花が待っていた。
2019年8月29日
道の記
切り株の桜の芽はまた刈られていた。株の根元が刈りにくかったようで、数枚の葉が残っていた。今回、桜が枝を横に伸ばしていたのは正しかったということだろう。
大くすのきの林には大きな重機が来ていた。建設工事がこれから始まるのだろう。小さな緑は重機の陰で見えなくなった。切り株は置かれたまましずかだった。
柿の木や樫の木が切り株になっていた場所は、土が重機で掘り返された様子だった。切り株は根から無くなっていた。ちぎれ根が地面から出ていた。以前から敷地の中には廃棄物のような物々が放置されていたが、切り株らしき姿は見えなかった。
このあいださわった柿の葉も樫の葉もその感触をおぼえている。
前を見ずに歩いていて、ふと、田んぼだった場所の花壇の花が目に入った。私は咲いてるよ、と、呼びかけてきたように感じた。
造花が供えてある手向け花のプランターに、少し長めのねこじゃらしの穂が1本、立てかけてあった。よく見るとプランターの中からも穂が1本伸びていた。プランターの中にねこじゃらしが生えていてそれを1本抜いて立てかけたのか、2本持ってきて1本をプランターに差したのか。いま考えるとプランターに土が入れてあるとは思えない。どこかからどなたかが持ってきてお供えしたのだろう。ねこじゃらしはそれぞれに、そこに緑を添えていた。
2019年8月28日
道の記
斜面の樹木をいくらか伐採すると告知が出ていた。跡地全体の工事に先立ってのことだろう。もともとふつうに立ち入ることができる場所ではなかったが、工事後は一般の人たちが利用可能になると聞いている。緑も、生かしてほしい。
からすやすずめが倉庫の上にたくさんいた。たぶん猫の餌を待っているのだろう。猫はいなかった。
クサギのトンネルだった場所のクサギも咲き出した。暗闇の中に薄白く花が見えた。今年はトンネルには戻らなかった。それでもしばらくはトンネルと呼び続けようと思う。いつか、戻る日も来るかもしれない。
道の記
チャンチンの木が植えてあったのになくなった交差点。その植え込みにさしかかったとき、あまり背の高くないチャンチンの木が、数本生えているのに気づいた。もとの木かどうかわからない。チャンチンは小さな傘のように枝を広げていた。
キツネノマゴの公園はまだキツネノマゴは咲いていなかった。この公園を初めて通ったときに見た、ヒナギキョウの花が少しだけ咲いていた。
さっき入れなかった店にもう1度向かう。繁華街の裏の知らない道で、ここを通って行けるのかどうかわからない。お家の前に大きなランタナ。花が咲き、いくらかのつぼみをつけていた。
このあたりは客引きに遭うかもしれない。そう思いながらも、もう少し歩いてみる。ふつうの暮らしのお店があるのでだいじょうぶかと思う。ほどなく、知っている大きな道に出る。車も人もたくさんに行き交っていた。ひょっとしたら、ここまでの道のほうがしあわせだったのかもしれなかった。
ラベル:
キツネノマゴ,
チャンチン,
ヒナギキョウ,
ランタナ,
街中公園のキツネノマゴ
2019年8月21日
道の記
大くすのきの林だった場所の、丘の上に置かれていたくすのきの切り株は、丘の脇に移されていた。丘の向こう側に、小さくこんもりした一点の緑があった。木なのか草なのかわからない。小さなくすのきの樹冠のようにも見える。その緑がいまこの場所でいちばんの高みにいた。
先日夜に通ったとき小さな緑の馬に見えた道の脇のヒメムカシヨモギは、きょうは馬の形をしていなかった。今年の茎はしおれかかっていて、去年の茎は今年の茎とは分かれて立っていた。今年の茎にもたれていた部分が枯れ落ちたのかもしれない。
歩く途中、蝉を拾っては土のある所に置いて行った。生きている蝉は木を探して幹に移した。しかし次第に私も歩き疲れて、人が踏まなさそうな位置に落ちている蝉はもうそのままにして先を歩いた。最後に見た蝉は、学校のグラウンドの網の下に逆さに挟まっていた。動いてはいなかった。
道の記
線路脇はもう草も生えていなかった。まわりには、薬を撒かれた様子で枯れた草が残っていた。
電柱ランタナは出ていた葉がなくなっていた。
電柱ねこじゃらしの近くに出ていたねこじゃらしもなくなっていた。
以前、ナガミヒナゲシやノミノツヅリが出ていた信号の脇には、背の高いヒロハホウキギクがいた。ヒロハホウキギクは今年はあちこちでよく見かける。そのヒロハホウキギクたちが、いまそこにいない何か誰かのかわりを務めているような気がなんとなくした。
2019年8月15日
道の記
交差点の電柱の影にヒメジョオンの花が見えた。のぞき込むと、オヒシバと並んでいた。きょうも日差しはすさまじかった。
大くすのきの林だった場所は、この前通ったときには土が積まれて上が平らにならされていたが、その上に、くすのきらしき切り株が置かれていた。ここはやっぱり、くすのきの場所なのだ。切り株は切り株の形をしていなかったが、空に向かっていた。
丘のはずれの切り株は小さな緑を従えていた。その切り株の芽も出ているのかもしれなかった。
柿の木の切り株から少しだけ離れた位置に、柿の芽が出ていた。切り株の芽なのか、切り株の柿の木のこどもなのかはわからなかった。
道の記
低い山の裾野に広がる田んぼの中を行く県道。歩道はセイバンモロコシが立ち並んでいる。その中で1か所、キツネノマゴがかたまって生えていた。今年初めてキツネノマゴの花を見た。農家のお家の影が掛かる位置だった。その先はまたセイバンモロコシの続く道だった。
お店も自動販売機もない道だった。あらかじめ飲み物を調達しておくべきだった。ふらふらしてきた頃にようやく自動販売機があった。食堂だったようだが閉店してしばらく経つ感じだった。飲み物をありがたくいただいた。お店の入口の横にキンモクセイの木がいた。クモが巣を張っていた。木の葉に触れると、触れたところに私の汗が水滴になって付いた。
以前は畑だったのかもしれないいろいろな高い草が生えた土地の手前に人の後ろ姿が見えた。立ったままじっとしておられる。何をご覧になっているのだろうとこちらも少し立ち止まりかけたが、その立っておられる姿勢で私も気づいて、先へ歩くことにした。
この道を再び歩くことはないかもしれないと思いながら歩いた。いくらかの雲と、とんでもなく青い空。何かのつる植物が何か煙突のようなものを全面緑の柱に変えていた。農作物の無人販売スタンドが何も置かれず放置されていた。道向こうには小川が流れているようだった。この小径の景色がこの夏の思い出になる予感がした。
道の記
クサギのトンネルだった場所でもクサギの花が咲き始めた。しかし香りはわからなかった。通る人の香水のにおいのほうが強かった。
その先のクサギの花がたくさん咲いている場所では香りが立っていた。クサギとは言うが臭いというよりは香ばしい。でもそれは私がここを通り過ぎる人間だからだろう。近くに住む人や働く人はつらいかもしれない。そう思ってあたりを見回したが、クサギよりはるかに高い所にそびえ立つマンション群へは、香りはいつもいつも届かないだろうと思い直した。
空き地はヒロハホウキギクが高くなり始めた。アキノエノコログサも多い。このごろは草を見ると反射的に手を小さく振っている。その振っているところを向こうから歩いてきた人に見られた。見られたと言ってもすぐに視線を外されたようだった。すれちがうまでは私も手を振らないでいたが、すれちがった後には気がついたらもう手を振っていた。
イヌビワのいたお店の跡地は整地が始まっていた。重機がすみずみまで手を入れていた。
2019年8月14日
道の記
大くすのきの林だった場所は、丘が盛り土をされて一段高くなっていた。盛り土の頂部はたいらにされて、全体が空に向かって祭祀する場所のようになっていた。しかし祭司はいなかった。
いつかの春の畦にムラサキサギゴケを見た田んぼは大きかったのだが、建物が建っていた。
夜の歩道の端に、小さな緑色の馬を見た気がした。よく見ると、ヒメムカシヨモギの茎が伸びて、その横に枯れ茎が馬の胴体のようなかたちを付けていたのだった。枯れ茎もヒメムカシヨモギのようだった。花の跡があり、去年の茎のように思われた。
ラベル:
ヒメムカシヨモギ,
ムラサキサギゴケの田んぼ,
大くすのきの林
道の記
スーパーマーケットの跡地は更地になり、一部だけが駐車場として使われている。歩道際のあたりには、ヒロハホウキギクらしき草、アキノノゲシらしき草、アキノエノコログサ、オオアレチノギク、なにかのセンダン草など、高い草が立ち並んでいる。そこだけ広い空に、木星とアークトゥルスがそれぞれぽつんと輝いていた。他の星はわからなかった。
たしか古いお家だったと思うが、もう思い出せない。そのことに茫然としながら、重機が止まっているほぼ更地になった後の敷地の横を通った。歩道のクロガネモチが1本、膝丈ほどの高さで伐られていた。赤いテープが巻いてあった。そっと触れた。切断面が街灯に白く照らされて、年輪までわからなかった。
道の記
跡地の外周を巡る緑道の、まだ工事中だった箇所が開通していた。そこを歩くのは10年ぶりになる。気になっていたニッケイの木に近づく。見上げても緑の葉は見当たらない。樹皮が剥がれかけていた。それでも会えてうれしかった。でも、うれしいだけではまったくなかった。
ニッケイの木は多くの方々に人気だった。こどものころ根をかじっていたとか、根を掘り上げて売ってこづかいにしたとか、むかしの思い出をたくさんの方からうかがった。そのときの光景が目の奥に浮かんだ。どなたもしあわせそうにお話しになっていた。
ニッケイの木は暮れた空に枯れた葉をいくらか残しただけの小枝を広げていた。私は、樹皮の浮いた幹に触れて、おつかれさま、としか声を掛けてやれなかった。思いはそれだけしか言葉にできなかった。
道の記
ビルの谷間のヨウシュヤマゴボウはビルの谷間に小さな山を作っていた。実が半分ほど熟しているようだった。
校舎の解体工事が始まるように聞いていた。全体の三分の二ほどに網が掛けられていた。校舎の横に大きな榎の木が立っている。大切にされてきた木だが校舎解体に伴って撤去されるという話を聞いている。校庭のフェニックスなどの木々は早くに無くされた。榎はきょうも変わらずに立っていた。
ラベル:
エノキ,
ビルの谷間のヨウシュヤマゴボウ,
ヨウシュヤマゴボウ,
小学校跡のエノキ
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