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現在、機器の問題でブログの更新がやや難しくなっています。最新の記事はツイッターのほうに投稿し、このブログには可能なときに後追いで掲載するようにします。1日の記事が多いときにはブログに一気に投稿する場合があります。2020年9月18日(2021年6月1日修正)

2019年9月30日

道の記


交差点のこぶしは、実も残っていた。花芽も出来ていた。

その近くの大きな柿の木は、実をつけていた。まだだいぶ青かった。


草も木もいないので地下通路のことを書くことがあまりない。ここもひさしぶりに通る通路だが、書くことはないだろう…と思いながら歩いた。出口近くになって、けやきの葉が通路の端に落ちていた。


ここにエノキグサが生えていたか、街中には出てこないとこの前お話ししたのは訂正しないといけない、と思った。

しばらく行くとクワクサも生えていた。この街にもクワクサがいることがうれしかった。


道の記


ある神社を訪ねた。境内の木が台風で倒れたという話を聞いて。神社は無人で木は倒れたままになっていた。撤去・修復の段取りにまだ入れていないのだろう。倒れて数日経つことになるが、破断面はまだみずみずしい感じを残していた。

神社の境内に入ってすぐ、香りを感じた。ああもうそういう季節になるのか、と思った。どこの枝に咲いた花があるのかわからないほど大きな、金木犀の木。手前の枝にはたくさんのつぼみを用意していた。


そういえばきょうも、母がむかし通った学校の地に来ている、と思った。もう学校そのものは遠く山の裾野に見えるか見えないかになっていたが、母も見ただろう山は青く、そのふもとに町並みと田畑が広がり、この川土手には彼岸花が赤く一心に並んでいる。1株、白彼岸花が咲いている。

その川土手のベンチに掛けてお店で買ったラスクの袋を開けようとすると、猫がやってきた。猫はすぐに何か判断したようで、鳴きもしないでそのまま立ち去って行った。行ったほうではほかの猫たちがのんびりしていた。


この街にひところ住んでいた、亡くなった友人のことを思い出していた。あの丘の上に見える住宅地のような所に住んでいたらしい。とても高いマンションが1棟立っていた。この街は私にはなじみのない遠い街だが、ここに暮らして私の街と日々行き来する人もたくさんおられる。そして自分もこの街にいまひとり居るのだった。犬の散歩の方々がすれちがっていった。犬ともども挨拶してくださった。


道の記


街道のようなむかしながらの町並みのすぐ外側は田んぼが広がっているようで、建物の隙間隙間からちらちら明るい緑が見えた。その向こうは低い山が幾重か連なる。知らない山だけれど、なにかの懐かしさを覚えた。


うちと同じように庭先にたくさんの草が生えているお家の前を通った。ああ、やっぱりこういうほうがいい、と思った。きっと、見たことがないような草も何か生えていることだろう。


そう思って歩いているうちに、駐車場の端で見たことがない草を見た。


赤いカンナと黄色のカンナが小川の縁を彩っていた。カラムシも緑をたくさん添えていた。


道の記


排水溝のクスノキは排水溝の網から外へ伸び出ていた。元気そうだった。すぐ下にイヌビワらしき葉も見えた。


道の向こう側のほうが緑豊かに見える。ここでは道路は横断できない。さっきの信号を渡っておけばよかった。でも、こちらの道にも、数は少ないけれどいろいろと草が生えている。こちらはこちらで見て歩こう。チチコグサがのんびりと生えていた。


少し歩いているうちにキツネノマゴが咲いていた。この道中、キツネノマゴを見たのはあとから思えばここだけだった。


列車で少し遠出するときにいつも眺める、開けた風景。いつかそこに立ってみたいという気持ちもあったけれど、実際にそこを歩く日が来るとは思っていなかった。田んぼと畑の中に小川が流れ、その脇に小径が通っていた。彼岸花がどこまでも並んでいた。白いサギがこちらを見て、ゆっくり去っていった。もっと遠い所にいるサギたちはそのままでいた。


以前、この町の病院に入院した親戚の方をお見舞いに、この道を通った。少し先にポケットパークがあるはずだった。ポケットパークはそのままだった。その方にはピアノを弾いたテープをお送りする約束をしていたが、お送りしたのはその方が亡くなる直前だった。そのことを苦く思い出しながら、病院の建物のほうを見た。このさきは行ったことのない道を行く。


2019年9月28日

道の記


以前ホウキギクが出ていた丁字路の角。今年はねこじゃらしが穂を小さく立てていた。


元すみれのプランターの近くで生き延びたキツネノマゴは花の穂をずいぶん大きく伸ばした。種子をたくさん作れただろう。

その近くで、胴があざやかな緑色のとんぼが路面にいた。尾が丸まっていたが、拾い上げると弱く動き始めた。どこか涼しい場所に移したいと思い、とんぼを手に持って歩いた。

公園の水辺は台風の後片付けでたくさんの職員の方が落葉回収作業をしていた。とんぼをそのあたりに置くわけにはいかないと思った。けっきょく、いちばん扱われなさそうな花壇にとんぼを据え置いた。とんぼはどう思ったかわからないが、ゆっくりと尾を動かしていた。


やま、と、近くの幼稚園の子らしきこどもさんがぽつんと言った。お母さんが、「坂」ね、と言って、こどもさんと坂道を登っていった。こどもさんはきっと、どこかの山の道を歩いたのだろう。とてもいい覚え方をしたのだと思った。坂を「やま」と思っていたことを、おとなになったいつか思い出してほしい、そんな気がふっとした。

その短い坂道のすぐ上に大きなケヤキとクスノキが立っていることを、書いているいま思い出した。


道の記


台風が過ぎた街の道は、街路樹のクロガネモチなどの葉や小枝が路傍に積もっていた。どなたかがそれぞれに掃いて集めたのだろう。


空き地のヒロハホウキギクなど丈の高い草は多くが倒れていた。このさきは倒れたまま花を咲かせ、それぞれに実りのときを迎えるだろう。


道端に小さく生えている松の木に、ビニール傘が絡んで留まっていた。


市街地公園にも夜が降りてきた。先日お目にかかったばかりのフルート奏者の方が公園の端でフルートをお吹きになる。多くの人が行き交うなか、朝のドラマの主題歌メロディーが、ビルの壁面に沿って、どこまでもかすかに流れていた。


2019年9月26日

道の記


ツクシオオガヤツリは秋の穂が出ていた。


小さな丘だけれどつくつくぼうしの声が山のようだった。


フジバカマらしき花が咲いていた。花壇なので園芸品種なのだろう。ほのかに香る。となりに斑入りの葉をした、やはりフジバカマの仲間らしき草が、花を準備していた。公園のここまで来る人はこどもさんと親御さんだけのようだった。



道の記


雨がありがたい、というふうに、建物の脇でヤナギバルイラソウが咲きそろっていた。


2019年9月23日

道の記


畜魂碑というものを初めて見た気がする。どこかできっと見ていただろうと思うのだが。すぐ近くではたくさんの方が畑作業をしていた。オクラらしき花が咲いていた。


歩く予定のなかった町の道を歩く。クワクサがところどころに生えていた。去年もここから遠くない町でたくさんのクワクサに出会って喜んだのだった。

母が通っていたという学校は木々の向こうで静かだった。その木々のふもとにもクワクサがいた。


ひさしぶりに歩く春の小径。トキワハゼが咲いていた。ほかの花はあまり見えない。キツネノマゴが出ていないと思いながら歩く。小径が終わるころにようやく見つけた。去年とは違う場所に出ている。稲穂は刈られるまでもう少しのようだった。


キバナコスモスは出ていなかった。その近くに赤白の彼岸花がたくさん並んで咲いていた。


ふと横を見たら、建物と建物のあいだでボタンクサギが咲いていた。大くすのきの林のボタンクサギを思い出した。ここのボタンクサギにしあわせが続きますように。


道の記


2つの敷地に分割された大くすのきの林。建物のほうの敷地はフェンスが撤去されて大きな建物があらわになった。ファサードに位置する隙間は少し草取りをした様子があった。ボタンクサギの幼木たちはそのままだった。

ボタンクサギの1株の小さな葉に、てんとうむしが留まっていた。別の葉は何かの虫に食われた跡があった。どんな小さな隙間にも、いのちの営みがあった。

山は暮れ色に変わっていた。


道の記


山の向こうから雲がやってきて、山肌に影を落としながら去って行く。山村暮鳥の詩を読んでいる気持ちになってきた。


オキザリスの花が咲いていた敷地は新築の住宅が並んでいた。


種類が定かでないたんぽぽが下に出ていたブロック塀は取り替えられていた。道路との隙間はコンクリートが完全に埋めていた。


民家を横に見下ろしながら下っていく坂道。以前ここを通ったときにはセイバンモロコシが並んでいた。同じ季節のきょうもセイバンモロコシが並んでいた。近くの穂を手に取った。穂は実りの色だった。


むかしからの生活雑貨のお店でラムネを買って飲む。お店のテーブルにもラムネの空き瓶が置いてあった。


道の記


ポケットパークはブタナが咲いていた。角の向こうには白彼岸花が並んでいた。お世話している方の姿は見えなかった。頭を下げて先を歩いた。


神社にお参りし、その神社の高齢のくすのきのまわりをまわった。威容だけれど、この姿はひとときひとときの小さな活動の長い長い積み重ねで出来ているはずだった。そのいまのひととき。

こどもさんがひとりで、その木のまわりに敷かれている木のデッキの上で、木の足音をたしかめるように鳴らして遊んでいた。


道の記


いろいろな道で道端の木や草がなくされているのを見てきて、ひさしぶりに通るこの道も何かなくされているのではないかと不安に思いながら歩いた。道端に小さな蘇鉄がいるはずの場所に差し掛かった。蘇鉄は元気にしていた。まわりには、柿やアカメガシワの幼木もいて、タチスズメノヒエが穂を高く伸ばしていた。


山の方向へ向かって歩く。空はとても青く、日差しは強いが、風が涼しい。ようやく夏が来た、という錯覚に見舞われた。


休憩のため公園に立ち寄った。向こうのほうでお姉さんと妹さんのように見えるこどもさんが遊んでいた。私がベンチで休んでいると、やや近くまで来てそこで遊び始めた。となりの集会所で声がするので、そこに居るどなたかを待っているのだろう。そろそろ行かないとと思って立ち上がる。少し公園を歩くと、さっきこどもさんたちが遊んでいた所のそばに花壇があった。コスモスが少し咲いていた。


道端のお家の畑の端にイヌコウジュが出ていたのをだいぶ前に見た。そのあと、季節なのにイヌコウジュが出ていなかったのも見た。そこを通ったけれどイヌコウジュは出ていなかった。立ち去りながら、見つけられなかったのかと思って後戻りしてもう一度見てみたけれど、出ていなかった。


このお家の向こうには大きな木があったような記憶があるが、空だった。その隣のやや大きな木と勘違いしていたのかもしれない。立ち去る前に、その空に向かって、記憶にある大きな木を思い浮かべた。


2019年9月18日

道の記


通るときにいつも道端の花壇を手入れしている方がおられる。きょうは声を掛けた。話し好きな方だった。約束の時間があったので声を掛けておきながら失礼した。


だいぶ一帯の工事が進んだが、物置はそのままで、物置の裏のイヌビワもそのままだった。


クサギのトンネルはトンネルとしての復活は遠い感じだが、花はよく咲いた。トンネルの端だった位置の、切られてから再度伸び出したクサギの幹がまっすぐ立っていて、ぐるっと輪のように咲かせた花を空へ差し上げていた。


道の記


大きな道の横に小さな畑があっていろいろな作物が育てられていたのだが、その畑がなくなっていた。これから何か建てられるか駐車場になりそうな様子だった。


橋のたもとから出ていたイヌビワがなくなっていた。


小さな道へ入る角の縁石まわりにスミレが出ていたのだが、舗装し直されたようだった。草はまったく出ていなかった。


私の前から歩いてきた人が、横のビルとビルの間の隙間をちょっとのあいだ立ち止まって見ていた。その方が立ち去ったあとにその隙間を見てみた。ごみバケツとイヌビワの幼木が見えた。その方がどちらをごらんになっていたのか、どちらでもあるのかないのか、わからなかった。


道端のくすのきの幼木は切り株のまま動きがなかった。


向こうに柿の木がいた駐車場の柿の木がなくなったと思っていたが、そこより手前の駐車場の向こうに柿の木らしき木が見えた。なくなったと思ったのが自分の勘違いだったのか、だとするとこの木が私には見えていなかったのか。


大きなくすのきが1度切られた後、ひこばえが残されて育てられている小さな公園。草は取られているようで、土が新しく入れてあった。ベンチで休みたかったが若い人とやや若い人で埋まっていた。先へ歩くことにした。


2019年9月10日

道の記


すみれのプランターが植え替えられていた。近くにはキツネノマゴもプランター内に出ていたのだが、一斉に植え替えられたようだ。ガザニア、なでしこの仲間のような花、まだ緑だけの花。すみれはまったく見つけられなかった。

その近くに1株だけキツネノマゴが生えている。この場所で生き残ったのはこの株だけになったかもしれない。花が咲いていた。このキツネノマゴがひとりになったことは、キツネノマゴには知られないほうがいいと思った。しかしわかっているかもしれなかった。


ナガミヒナゲシやノミノツヅリが出ていた信号のふもとも、草が無くなっていた。ここも花のプランターが新しく並んでいた。



ヤナギハナガサが出ていたお店の跡地の横を通った。もう草も花もいない敷地をもういちど目にして、どこに向かってでもなく声を上げた。


道の記


取り壊されていた建物の敷地が更地になっていた。敷地の歩道沿いにカイヅカイブキが植えてあって、その下にガザニアなどいろいろな花と草がいたのだが、まったく姿が無くなっていた。そのあたりに木のちぎれ根が見えた。少し離れて、エノコログサらしき葉が1株分だけ見えた。


電柱ランタナは何の動きもなかった。電柱ねこじゃらしもまったく緑はなかった。


道の記


ああここにはヤナギハナガサが出ているのか、と思って通るたびに見ていたお店の跡地。草が取られて無くなっていた。
きれいにしたつもりなのだろうけれど、美しいものが無くなった。


道の記


チャンチンの植え込みは草とチャンチンとともに刈られていた。チャンチンはさっそく小さなひこばえを出していた。


枯れたニッケイは切り株になっていた。ニッケイに付けられていた管理札が切り株の断面中央に打たれていた。


2019年9月9日

道の記


山の向こうに入道雲。夏が山の向こうに去って行くよう。


道端のかんなは無くなっていた。かんなだけでなく、まわりの草が枯れたようにしていた。この前はかんなが咲いていた。このかんなはやっぱり育てられていたのだと思って安心したばかりだった。


田んぼは刈り取りが済んでいた。鳩や雀が集まっていた。道端のコスモスはさすがに花はなく、いまは他の草たちと並んで秋の深まりを待っているようだった。


ひこばえが伐られた桜の木は、もう枝からは芽は出てこないようすに見えた。わずかに残った数枚のひこばえの葉がこの木のいのちをつないでいるようだった。


道の記


もうひとつの大くすのきの林だった場所は、どうも2つの敷地で運命が異なったようだ。片方は管理地の札が立ち、手つかずになっている。横の歩道を歩いているとヤナギハナガサの花が歩道に出てきていた。敷地内にはアレチハナガサとヤナギハナガサがめずらしく並んで咲いていた。もう一方の敷地は建造物の工事が進んでいる。その隅っこに、以前ここで咲いていたボタンクサギのように見える大きな葉の幼木が出ていた。キカラスウリのつるが下を這っていた。


その先のお家が取り壊されていた場所は土地が掘り下げられていた。崖はほぼなくなっていた。以前は崖の上から何かの実が落ちていて、しかし何の実だったか思い出せずにいた。歩道の植え込みから柿の葉が伸び出ていたのを見つけた。


交差点のホリホックは葉だけになった。となりで白彼岸花と鶏頭が咲き始めていた。草取りをしている途中らしく、取られた草がひとつかみになって歩道に放ってあった。


道の記


モウコタンポポが生えている場所は草取りの跡があった。敷地の端で一輪だけ、植えられた花々を横に咲いていた。


大くすのきの林だった場所は掘削された土砂がさらに高く積まれていた。くすのきのふたつの切り株はこの前のときと同じにそのかたわらに置かれていた。




道の記


桜の切り株の刈り残されていた葉が、虫にかなり食われていた。小さな芽があるけれどそれが大きくなる様子はない。


にぎやかな道でなく、横にずらっと草が並ぶ裏道のほうへ曲がった。ハゼランがにぎやかに咲いていた。


だいだいの雲と青い雲。飛行機雲がしばらく前に出来たようだった。空をスケッチするために立ち寄った公園では、小さなこどもさんがご両親に遠く見守られて遊具で遊んでいた。桜もいちょうも秋のはじまりに立っていた。