道ゆく先々での、木々草々花々などさまざまの出会いとその後を、一筆箋に綴るつもりで。
From the Wayside: about my acquaintances of trees, flowers, weeds and others (written in Japanese)
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※ 現在、機器の問題でブログの更新がやや難しくなっています。最新の記事はツイッターのほうに投稿し、このブログには可能なときに後追いで掲載するようにします。1日の記事が多いときにはブログに一気に投稿する場合があります。2020年9月18日(2021年6月1日修正)
2019年11月29日
2019年11月27日
道の記
モミジバフウの色とりどりの落ち葉が歩道を埋めていた。西日に光ってきれいだ。私はしあわせに歩いたが、こちら側でも向こう側でも、ご近所の方々だろう、箒で無言で掃き集めておられた。
だからと言って、つらく思いながら掃いておられたともかぎらない。そこはこちらで勝手に考えすぎないことにした。
この前ここに来たときにヒイラギの花が咲いていた。香りが強く、その香りで上を見上げてわかったのだった。きょうもよく香っていた。そしてこの前は気づかなかったが、何本も並んでいる。全部見てみようと思って行きかけて、ふと、ここが公衆トイレの裏だと気づいて、それ以上進むのをやめた。公衆トイレにあわせて植栽したのでは、と思ったが、これも考えすぎないことにしよう。美しく香っていた。
ベンチに掛けようとやってきたが、ここに生えていた小さな木がなくなっているのに気づいた。切り株があった。見ると、これまでに何度も何度も伐られた跡がある。私がこれまで見ていたのもその何度も何度も伐られた後に伸びていた幹だったのだろう。細かった。木蓮の木だった。切り株に芽らしきものは見えなかった。次の春の花は無理かもしれない。でも春を待とう。
けやきの葉もたくさん散って路面に積もっていた。きょうはこどもたちはいない。道の先では、この前からいっぱい咲いているさざんかの花が、街灯の灯りだけで照らされていた。
2019年11月25日
道の記
よく通る道で、歩道が狭くなっている箇所がある。街路樹のクロガネモチと電柱と建物とのあいだを抜けるようにして通る。すれちがうのは難しい。そこのクロガネモチの枝を落とす工事をやっていた。剪定ではなく伐採のようだった。次にここを通るときにはこのクロガネモチは撤去されているかもしれない。木には近づけない。通り過ぎてから1度振り返った。クロガネモチは思っていたよりも傾いて立っていた。
イヌビワの植木鉢があったお店の跡地のひとつ奥の駐車場の隅で、イヌビワが茂っていた。
こちらの方向へはむかしの思い出があり、あまり行かないようにしていた。そういえば最後にここを訪ねたときも、紅葉だったのではなかったか。少し傾いた日差しに、神社の高台の紅葉があざやかに見えていた。あたたかそうな御家族の声が聞こえていた。
小径を行くと、こんどは小さなイヌビワが敷地の端で、でもしっかりと茂っていた。敷地の先の端では小さなホトケノザの葉が出ていた。
ここからはいつもの道を行こう。そっちの草から呼ばれている気がする。そう思って高架をくぐって向こう側の歩道へ移った。ヒナギキョウがたくさん咲いていた。
地図で見ていてどういう公園だろうと思っていた。時間の合間に登ってみた。思いのほか山道で、ツワブキがいっぱい咲いている。ツワブキは植えられたのではないかとも思うが、よく知らないシソ科の花や、たぶんノコンギクだと思う野菊が、土の階段道を彩っていた。西日。こどもたちの声。しあわせな場所だった。
帰りも、思い出が巡り寄せる道を通った。もうはるかなむかしだけれど、忘れてはいない。忘れたほうがよいのかもしれないが、忘れきってしまうのではだめだという気がした。細い夜道はまっすぐ続いていた。
クロガネモチは下から幹の途中までが残っていた。幹に小さな葉がいくつか出ていた。生きていれば、ここから始め直すことができる。幹に手を当てた。たがいに言葉はない。振り返って、また、とだけ声を掛けてその場を去った。
道の記
塀の下にいろいろな草が並んでいる場所。今年はエノキグサが多く出ていたが、だいぶ疲れたようで、色褪せてきた。きっと次の世代を残していることだろう。
ついこのごろどこかで、やはり塀のような場所の間際で、とても高く伸びたエノキグサを見たのを思い出した。一瞬エノキグサと思わなかった。ふだん歩く道ではなかった。もうどこだったか思い出せない。そのエノキグサたちも疲れた姿だったが、最後の力を振り絞るなどということではなく、みな、すっとその場に立っていた。
街路樹のいちょうもほぼ黄色になった。日が沈んだ西空が、よく似た色に変わっていた。
道の記
ときどき歩いている小さな道だけれど反対方向から歩くことがあまりなかった。その道から入っていくさらに小さな路地に、被爆した柿の木の三世だという貼り紙が見えた。近くに寄ると、ほぼ落葉した1本の木が立っていた。まだ若い感じの木で、残っている葉は赤かった。愛称もつけられて親しまれている様子だった。次に通るときには明るい緑が見られるだろう。いつか明るい赤い実も見られるだろう。
ラベル:
カキノキ,
被爆した木の子孫の木,
路地
2019年11月20日
道の記
草が刈られた空き地ではアキノノゲシが復活していた。アキノノゲシとしてはとても低い丈で、花を咲かせ、つぼみをたくさん付けていた※。
※ このアキノノゲシの「つぼみ」は花が咲き終わった後の状態だったかもしれない(つぼみだったかもしれない)。次の記事に注を書いている。
https://michinohata.blogspot.com/2020/03/blog-post_43.html
交差点角に以前ヒメツルソバが出ていたのが、舗装工事でその位置が埋められてしまった。しばらくぶりに通ったが、ヒメツルソバは出ていない。しかしすぐそばの植木鉢の中に、1株小さく生えていた。
オナモミらしい。とてもひさしぶりに見た。背丈が小さい。たびたび刈られるのだろう。実はしっかりと付けていた。
工場近くのくすのき切り株は、ひこばえが最近切られたように見えた。そこから新しい芽が出始めていた。
このエノキだったか覚えていない。でもこのあたりの位置だったような記憶がある。水路脇の小さな切り株から横方向に枝を短く伸ばしていた。解体された施設の敷地は手つかずのまま広がっていた。
道の記
田んぼの景色が自分のいつも歩いている範囲の景色と違う。田んぼと家々との境がゆるやかな感じがする。刈り穫られた稲は今年のものではないようだった。ホトケノザが一面に生えていた。
街路樹に1本1本オーナーの方の名前の札が付けられている。その街路樹の1本が切り株になっていた。切られてしばらく経つように見えた。支え木がそのまま残されていた。
先日初めて来た小さな駅。きょうは日暮れになった。駅前のくすのきが道路の明かりを後ろに、シルエットになっていた。
道の記
体調が思わしくなくなって公園の池のほとりのベンチで休んだ。ふと顔を上げたら目の前の水面に鴨がたくさん来ていた。餌をもらえると思って来たのかと思ったけれど、私がそのままにしていてもなかなか去らない。ほかのベンチにも人がいるのにそちらのほうには行かない。心配して来てくれたのだと思うことにした。
公園ではいくつか楽器の音が聞こえていた。去り際にはWhat a wonderful worldが聞こえていた。地平線の際がまだ赤く、金星と木星と土星と少し離れてもうひとつ星が並んで見えていた。
別の公園ではストリートミュージシャンの方たちが並んで、各々の楽器と一緒に歌っていた。少し離れて、以前お見かけしたアンプを担いで歌う方が、縁石に腰掛けて、マイクをこどもたちに持たせて好きなようにしゃべってもらっていた。こどもたちが楽しんだ後、時間が来たようにしてお立ち去りになった。
2019年11月16日
道の記
ひさしぶりに降りた駅は建て替えられて駅前も大きく変わっていた。むかし立ち寄った駅前食堂は看板を下ろしていた。
そして初めて来た駅は小ぢんまりとしていた。入口のロータリーにくすのきが大きく立っていた。これから少し遠くまで行くらしき方々が地元の方らしき方に見送られていた。
大きな公園を歩いた。空も地面も広かった。公園を通り抜けて川に出ると、オギが穂を立てて並んでいる川岸の向こうの、くすのきの林の向こうに、日が降りていくところだった。山は斜めから陽を浴びて、その光と稜線とで、ひかりとかげを作り出していた。自転車に乗ったこどもたちが、残りわずかな一日を遊ぶのだろう、土手を公園のほうへと走っていった。
春の小径はこの前通ったときは暗くなっていて草花がわからなかった。きょうはすぐにキツネノマゴが咲いているのがわかった。丈が低く、1度刈られたのだろう。かたまって咲いている。イヌタデ、コツブキンエノコロ、チカラシバ。そしてホトケノザもナズナも咲いている。にぎやかだった。春を湛えた秋の小径。少し暮れ始めていた。
2019年11月13日
道の記
バス待合所前の切り株は変わらずそこにいた。
桜が並ぶ高台のポケットパーク。きょうはベンチに掛けている人がいた。景色に向かって何かお弁当みたいなものを食べている。眼前は大きなショッピングセンターだが、その向こうには遠い山並みが見えていた。
ここを通るときにはたびたび、山から呼ばれている気がしたのだった。きょうはそこまでせつなくない。淡々と向かおう。
バス路線は途中から不通だった。車止めの向こうの道は川に向かってまるごと崩落していた。その手前でなごりのコスモスがけなげに咲いていた。
春の花も秋の花も咲いていた。ここではクワクサをよく見る。かと思うとヒメウズも花を咲かせていた。
棚田は一部だけ作付けされたらしい。畦に草の緑があざやかだった。今年も日曜市のお米と野菜を買った。みなさんにお目にかかれて今年も訪ねた甲斐があった。
通り過ぎたばかりのお寺の、鐘の音が響いてきた。この谷のいつもの景色なのだろう。雲は少し紅に染まり始めていた。道路を直そうとしている重機が、いまはしずかに休んで、明日からに備えていた。
2019年11月10日
道の記
以前スダジイの実を拾う方に出会った、そのスダジイの木の下でどんぐりを拾い集めた。マテバシイの実はけっこう落ちているが、スダジイは思ったほど落ちていない。今年も拾いに来られたのだろう。
サザンカの花の下で、幼稚園帰りらしいこどもたちが腹這いになって地面で何かをしていた。興味があったけれど、サザンカの花のほうを見て行き過ぎた。
伐採撤去された桜の代わりに新しい桜が植えられてこの冬で5年になる。新しい木は思いのほか大きくなっていた。そこにはもう新しい時間があった。
いちょうの並木が立っていた場所に寄った。いまは別の構造物がそびえている。あの秋はたくさんの葉が風に舞っていたのだった。いま思うと、自分の種子のように風に放ったのかもしれない。いま砂利が敷かれているこの場所の土は、あのいちょうたちを覚えているだろうと思った。
道の記
街路樹モミジバフウの葉が路面に粉々になりながら積もっていた。道は明るかった。
見た覚えがない種類の草を見つけてしゃがみこんだ。となりのネズミノオの穂が私のバッグやブルゾンに実をたくさんこぼした。それを落としていると、今度は別のとなりのタチスズメノヒエが実をこぼした。
線路と線路のあいだのまんなかに小さな木が生えていた。踏切から見たときはなにかそこだけが小さな森のように緑だった。線路に沿って道を歩いて近くまで来ると、葉はきらきら日に照っていた。すぐ脇に、イヌタデらしき小さな紅が見えた。
2019年11月6日
道の記
幹が枯れた桜はひこばえをいくつか出していた。まわりの桜はあざやかに色づいていたが、ひこばえはやっと伸び出した様子で、あおあおしていた。
道端で御高齢の方が立ち止まって、何か草を手に取っている。それを手折って去って行く。その場所に通りかかる。アレチハナガサの茎の上のほうが無くなっていた。その方の手にはきっと花があるのだろう。
畑だった場所が幼稚園のようなものになるようだ。重機が整地に入っていた。ここではトゲミノキツネノボタンがよく咲いていた。わずかに草が残っている敷地の端で、それらしき葉が地面を覆っていた。ホトケノザがぴょんと伸びて花を咲かせていた。
***
帰りに振り返ると、山はあざやかに陽を浴びていた。でも山の呼び声は聞こえなかった。景色をしばらく眺めて、行こうと山を背にしたとき、山の声が聞こえた気がした。いまは来なくていい、そこですべきことをしなさい、と言っているようだった。
1度だけ振り返って、山を見た。帰り道は行き道になった。
ジュズダマの空き地はジュズダマがだいぶ刈られていた。端のあたりに残っていた。ジュズダマの実が歩道の路面に落ちていた。七転び八起き、と思いながら、実を八つだけ拾って、手に握った。路面に残るジュズダマの実はまた誰かが拾うだろうか。
道の記
遠くの山にだけ陽が当たっていた。遠くを目指せ、ということなのかと思った。
交差点の鶏頭は、新しく植えられたらしいビオラの花々に囲まれていた。
道端のカンナは丈は小さくなったが元気なようだった。
田んぼはコスモス畑になっていた。まだつぼみが多い。畦にはたくさんのヨメナが咲いていた。歩道脇に逸出したコスモスは出てきていなかった。
いつも通るときに山を眺める橋。山は今度は陽を浴びつつあった。谷と尾根の陰影。美しかった。橋を渡ると、川の土手の道を向こうから自転車の人がやってくるところだった。かごに犬がいるのが見えた。
道の記
いつもススキやキツネノマゴが出ていた街路樹の植え枡、どうも薬が使われたようで、枯れた草が少し残っていた。
中央分離帯を通る長い横断歩道。一昨年そこでヒロハホウキギクを見た。去年は出ていなかったと思う。今年も出ていないだろうと思って急ぎ足で通っていたら、ヒロハホウキギクが咲いていた。2株出ていた。
キツネノマゴが出る斜面は今年は草刈りがあって、今季はもう難しいのではと思っていたが、キツネノマゴが小さく咲いていた。来年もまた出てくることだろう。
***
山が見えるほうの大くすのきの林だった場所は、大きな建物が完成していた。以前ボタンクサギがいた位置にかろうじて地面を残していたファサードの隙間は、セメントで埋められていた。その建物の手前、残る半分の敷地では、以前から咲いていたアレチハナガサやヤナギハナガサにくわえて、アキノノゲシも咲いていた。
くすのきの若木が、刈り込まれた歩道の植え込みで、植えられた木々と同じようにして居続けていた。彼らが、大くすのきの林を継いでいくだろう。
頭を下げて立ち去った。
2019年11月5日
道の記
大くすのきの林だった場所は、くすのきの切り株はなくなって、フェンスの向こうに鉄筋が並んでいた。
柿の木や樫の木の残っていた切り株が撤去された場所は、以前から出ていたヤブガラシが地表を覆っていた。ひこばえらしきものは見えなかった。敷地を越えて出ていた柿の木の芽もなかった。
田んぼだった場所の横の花壇は、ルピナスに似たあざやかな花が穂を立てて咲いていた。ポーチュラカがその下を彩っていた。
桃が1つ花を咲かせていた。その下ではホトケノザがいっぱい咲いていた。
大くすのきの林だった場所の横を帰りにも通った。鉄筋群はそこに新しく生えてきた植物のようにも見えた。彼らもあと50年くらい経ったら、くすのきたちと同じようにここを取り払われるのだろう。人の営みも人の力によって壊されていく。
鉄筋たちがめざす天は曇っていた。ただ土が積まれただけの、以前のものとは違う小高い丘の、その上ではなくはるか離れたところで、満ち始めた月が雲の向こうから照っていた。
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