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2016年9月26日

道の記


草も苔も生えていない民家の石垣の手前にぽつんとひとつだけ、アゼナの仲間のように見える小さな草が花を咲かせていた。


町内一斉清掃の時期にあわせて庭木の剪定をされるお家がけっこうある。実がついた椿の枝がごみ集積所に積んであった。別の通りではきのうきょう伐られたように見える柿の枝にやはり実がいくつもなっていた。


あちこちの塀の下できのうきょう草を抜いたと見える土の荒れ方をしていた。どこかでは草を燃す匂いもしていた。


いまこのまちなかで生き継いでいる草は、長年にわたる3月と9月の町内清掃のサイクルを生き延びてきているものと思う。でもこの時期が自分のライフサイクルの中で重要な時期に当たるような種類の草は、長年のうちになくなったかもしれない。そのようにしてこのまちで見られなくなった草もあるのかも。

※ 定期的な草刈りによって、その時点まで旺盛に茂っていた草に圧されていた草がのびのび育つようになる、という面もある。それは書いておかないと。
(ただそれは、「いいわるい両面がある」という話に落ち着くものではなかろうと思う)


一度倒れたと見える土手のセンダンの切り株から、ひこばえが伸びてたくさんの葉が茂っていた。これからもう一度伸びていこうとする木の力と、それを見守ろうというどなたかの思いが感じられた。