道ゆく先々での、木々草々花々などさまざまの出会いとその後を、一筆箋に綴るつもりで。
From the Wayside: about my acquaintances of trees, flowers, weeds and others (written in Japanese)
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※ 現在、機器の問題でブログの更新がやや難しくなっています。最新の記事はツイッターのほうに投稿し、このブログには可能なときに後追いで掲載するようにします。1日の記事が多いときにはブログに一気に投稿する場合があります。2020年9月18日(2021年6月1日修正)
2017年11月30日
道の記
たぶん樺の木だと思う。最初の年に見たときは横の2本の木々といっしょに大きく傾いていた。その後、横の木々は伐られ、その木だけが残された。傾きはいくらか戻され、添え木をあてられた。その状態で年を経ている。今年もおだやかに1年を送れたようだった。こずえのあたりにわずかに今年の葉を残していた。奥の深い森の木々といっしょに、静かにしていた。
伐り株には苔が生え、皮が剥がれ始めていた。それでも伐り株であることはやめないだろう。
2017年11月29日
2017年11月24日
道の記
この長い歩道を往く人はなにか心に抱えているものがあるのではなかろうかと思うほど長く続く歩道を歩いていて、スポーツのユニフォームを着た男の子とすれちがった。「こんにちは」と挨拶され、私も「こんにちは」と挨拶した。ほどなく歩道が途切れて小道と交わった。
坂道からはヤコブのはしごがきょうも見えていた。きょうは草地には誰もいなかった。クヌギの木が色づいていた。
伐り株になった柑橘の木は低い草に囲まれていた。
ふとなにかの甘い香りがした。道際の少し広い場所にあまり高くない枇杷の木があり、花が咲いていた。入って差し支えない場所のようだったので、近くまで寄って香りを嗅いだ。その花の香りだった。
山がきれいだった。夕日を正面に受けていながら色が淡く、背後の雲に溶け込みそうで、それでいて大きく広がり、はっきりとそびえていた。その山のほうに向かって自分が歩いているのがうれしかった。
2017年11月21日
道の記(2017年11月16日 五ヶ山・小川内)
東小河内の木々の丘には水が迫っていた。柿の木は樹冠の頂だけをダム湖の水面上に残して水没していた。枝に実が残る木のほうの梢に、1羽、大きな鳥がとまっていた。目は見開いていた。
桜は咲いていなかった。少しだけ残った葉が、色づいていた。となりのもみじは赤く染まっていた。丘の下のほうにひときわ赤い葉の木が見えた。その下が水だった。しゅろの木のそばにやや大きな木があり、枝にわずかに緑味を残した葉が見えた。その下の水面から、赤い葉の枝が伸び出ていた。
小川内の旧山祇神社境内上に位置する高い杉の木が、赤く染まっていた。
私が去るまで、鳥はずっととまっていた。
2017年11月15日
道の記
出かけていくとき、門の手前の足元にむかでがいた。用事を思い出して戻ってきたら同じ所にまだむかでがいた。何かを守っているのだろうか、と、ちらっと思った。さっき近くでかたつむりを見たのだが、そのかたつむりを私が踏まないように守っているのでは、ともちらっと思った。その思った直後に足で何かを踏んだ。かたつむりだった。
かたつむりを誰も踏まない所に安置して、出かけていこうとすると、むかではいなくなっていた。
工事現場に、そこに車が入って来るのか大きな鋼板が敷いてあって、その下からノゲシとアメリカフウロが葉を出していた。そこだけ春が早めに来たかのようだった。
キツネノマゴが生えていて抜かれたすみれのプランターから少し離れて、キツネノマゴがぱらぱらと咲いていた。
山はほのかに色づいて見えた。
2017年11月9日
道の記
バス営業所の入り口横で、ベビーカーに乗ったこどもさんが、出て行くバスに手を振っていた。バスの運転手さんが気付いて手を振っていた。
去って行くなにかだれかに手を振ることをとおして、人はそのときなにを学んでいるのだろう。私もそのようにしてなにか学んだのだろうか。
よく列車の旅をしていたころ、沿線や、線路と並行している道路を行く車の中から、こどもさんがこちらに向けて手を振っているのがしばしば見えた。あるとき、そのようにして並走している車からこどもさんが手を振っているのが見えて、手を振り返した。すると、車のこどもさんが見つけたらしく、ずっと並走しながらずっと手を振っていた。こちらもずっと手を振った。列車がしだいに先へ行くようになり、車を見失った。それから少しして、さっきの車が追いついてきた。こどもさんはいっしょうけんめいにこちらへ手を振り続けていた。
そのとき列車から手を振っていたのはきっとわたしだけではなかっただろう。
道の記
同じ歩道で、カマキリが踏まれているのとバッタが踏まれているのとに相次いで行き合わせた。どちらもあまり時間が経っていないようで、その場から動かせなかった。バッタは雌と雄がともに踏まれていた。いっしょにいたのだろう。
マンション敷地の隅に出ていたエノキグサは幻だったかのようにいなくなった。
ナガミヒナゲシとほかの草とがいっしょに出ていた隙間に、ナガミヒナゲシの葉が出ていた。すぐとなりにクワクサとホトケノザがいた。クワクサは色褪せかけていた。ホトケノザは花を咲かせていた。次の春にはナガミヒナゲシが咲き出すのだろう。
歩道のすみれのプランターにいたキツネノマゴがいなくなっていた。キツネノマゴが生えていたあたりが土が軽く荒れていて、抜かれたのだと思った。下に、引き抜かれたキツネノマゴが1本放置されていた。だいぶ時間が経っていたようだった。土の上に安置した。
どこもみんな秋の陽に照らされていた。
2017年11月8日
道の記
柑橘の木の伐り株、ひこばえがなくなっていた。伐り株はほかの木々の落ち葉になかば埋もれかけていた。
雨が少し激しくなったバスの窓からすすきの土手とその向こうのわずかな青空を眺めていて、どこか遠くのなつかしい場所にいたときの気持ちが沸き起こった。しばらくその気持ちに尋ねてみたけれども、どこだったか思い出すことができなかった。
帰りは別の道を歩いた。大きな草地を横に見て下る坂道の先に、ヤコブのはしごが降りていた。草地の向こうのほうで、こどもさんが2人で遊んでいるのが小さく見えた。
2017年11月6日
道の記
以前伐られた境内のクスノキの伐り株が、なぜかさらに伐られたようで、木紛が散ってあたりに残っていた。以前の伐採時に、伐り株の上面に薬が注入された跡があったのだが、注入跡も新しくなっていた。伸び出ていた小さなひこばえは、葉はもうなかったけれども茎は緑色をしていた。
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小さな植樹帯に、もとからそこに植えられていたと見える灌木のほかに、ケヤキの幼木やナンキンハゼの幼木やいろんな草が生えていた。ナンキンハゼ幼木は手を入れた形跡があった。この植樹帯はこういう緑がいいのだと、だれかが主張しているようだった。
大きな通りの交差点の、むかしからのお店がそこだけ並んでいる一角を、その斜向いの角に座り込んだお年の男性の方がスケッチしておられた。このまちはいいまちだと思った。
以前いつも見ていた道の脇の小さなクスノキは元気にしていた。
しばらくぶりに通った道はしかしいろいろと変わっていた。お店がなくなったりしていた。事務所の軒先の鉢植え沈丁花は鉢ごと事務所ごとなくなっていた。事務所が廃止されたのか廃業になったのかわからないが、鉢はいっしょにいなくなったのだろう。新しい場所で来年、また花を咲かせて香ることだろう。
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クサギのトンネルの下を、落ちたクサギの葉を大事そうに持った男の子とお母さんが通っていた。
2017年11月4日
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