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2016年10月22日

思うこと(マスコット・守り神)


少し前にたまたま見ていたテレビで、沖縄のどこか道際の塀からパパイヤが出てきて実がなっているという話題が取り上げられていた。近くの方が、見ていて拝みたくなるとおっしゃっていた。その言葉を聞いて、自分が思ってきたことが自分で腑に落ちた気がした。

まちなかの植物を見始める少し前、私は「マスコット(守り神)」的なものに関心を持っていた。暮らしのそばにそうしたマスコット的な存在の何かがいて(何かをそのように思って)、人は日々そうした存在と(あまり意識しないままに)関わりを持って暮らしているのでは、ということを考えていた。

別に顕著なご加護があるのでなくとも、人とは違う何か(しかし「ただのモノ」ではない何か)を身近に見出だしたり思いなしたりして、そうしたものものとの関わりを持ちながら暮らしている、そういうことへの関心があった。研究テーマになるかなと考えたこともある。

まちの植物をことさらそうした関心から見るようになったわけではないけれど、しばらく経って振り返ったとき、自分はまちの植物をある意味「マスコット」のように思いながら見ていた気がした。道端から道を行く人々を見守っているのではないとしても、そこに鎮座して日々の道行きに隣り合う「誰か」。

道の辺のパパイヤを拝む、と聞いて、そんなふうに考えたり思ったり感じたりしてきたことごとがさっと一列に並んだように思った。

東小河内の桜に花が咲いているのを見て、思わず手を合わせた。そうせずにいられなかった。


調べたら、桜の場所はやはり神社の境内だった。神社はどうも近くに移転しているらしく、おそらく地元の方々がお世話を続けていらっしゃることと思う。その行き帰りに桜もきっと見えていることだろう。