道ゆく先々での、木々草々花々などさまざまの出会いとその後を、一筆箋に綴るつもりで。
From the Wayside: about my acquaintances of trees, flowers, weeds and others (written in Japanese)
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2016年9月10日
思うこと(旅ノートから)
旅ノートを読み返すと、帰りの列車の車窓から見える山肌のゴルフコースの芝生を、それも「自然」だと思うようになった、と書いていた。旅先で見た畑の景色が人の営為で作られていて、そのなりゆきを含めて「自然(なこと)」なのだと思った、そのことの反映なのだろう。
そのことから連想して思い出したのだが、だいぶ前に集中豪雨があって、そのあと家から見える山脈がところどころ山崩れで削られているのを見た母が、山が痛がっていると言ったことがある。そのことをいま少し考えている。
怪我をしたのが何のせいだろうと、それを「自然(ななりゆき)」と考えるのであろうと、痛いのは痛い。
そして、人の営為や社会的な経緯まで含めて「自然(なこと)」と捉えるなら、削れた山を見て「痛い」と感じることは少なくともそうしたことよりもっと「自然(なこと)」に思える。
というより、山が痛がっているというのは「ほんとう」なのではと思う。
それを「そのようにその人が感じた」ことだとして、あれやこれやの知識や理論で説明し、別の事柄に変換し、ときに抹消しようとしたりすることがあるとしても、その感じが起きた事実は揺るがない。そしてその事実が指し示しているのは山が痛がっていたその痛さ。
その「感じ」を、いやそれは違いますと言って是正を求めることができるのは、山それ自身だろうし、そのほかにはいなさそうに思う。
(山が痛がっている、だからどうしよう、こうしよう、という問題はその先のことだと思う。いや痛がったりしませんよ、と言って諭すのも同様に「その先のこと」でしかない)
(痛さがあるときに、それが「誰の」痛さかを見極めたり決定したりする作業がなされる、ということについて考える)