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2016年8月30日

思い出すこと(旅ノート)


20年前のノートに、花巻のある温泉(自炊部)に泊まったとき「みず」をいただいた話が書いてあった。炊事場で、元気な宿泊客の方から、露天風呂のそばに生えていたからと「みず」をたくさんいただいた。私はその「みず」というものを見た覚えがなく、おそるおそるいただいた。ふつうにおいしかった。

いま思うとそれは水菜だった。私は水菜はふつうにおいしく食べるがあの頃はまだ食べたことがなかったのではないかと思う。さきごろ賢治の詩を読み返して、その中に「みづ」と書いてあるのを見つけ、20年経ってやっと言葉の意味がつながったような気がした。

自炊部ではいろんな宿泊客の方やスタッフの方に出会った。「みず」をくださった元気な方と同じ方かもしれず記憶が定かでないが、体を大事にしろ野菜を食べろとさかんに説教してくださる宿泊客の方もおられた。毎朝、廊下まで牛乳を配達して来られる方もおられた。みなさんどうしておられるだろう。

その自炊部で、吉里吉里にお住まいの方と部屋が隣り合った。私は町にひんぱんに出ていたのだが、1日だけゆっくりして、そのときに少しお話しした。従軍していたときに熊本に行かされて、こんな遠くまで来てしまったと思った、と、宿の外の谷あいの景色を眺めながら九州の思い出を語ってくださった。

震災の後しばらくしてから手紙を出したけれど、返信がなかった。お名前を見かけることはこれまでになく、いまもどこかであのときのようにゆったりと過ごしておられると信じている。


旅ノートを読み返していたら、よく覚えていることもあるいっぽうで、多くのことを忘れているのに気付かされる。ノートに書いていなければ一生思い出さなかったかもというようなことも。思い出せなくてもその出来事がいまの自分を作っているのだろうとは思うけれども、書いておいてよかったとも思う。