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現在、機器の問題でブログの更新がやや難しくなっています。最新の記事はツイッターのほうに投稿し、このブログには可能なときに後追いで掲載するようにします。1日の記事が多いときにはブログに一気に投稿する場合があります。2020年9月18日(2021年6月1日修正)

2019年1月31日

道の記


この前その道を通ったときに、駐車場の奥の柿の木がなくなっているらしきことに気付いた。似たような駐車場が多い一帯なので私が駐車場を間違えているのかもしれないと思い、今回気をつけながらその道を通った。やはり柿の木はなくなっていた。切り株が残っているかどうかは車が手前に停まっていたためわからなかった。


昨年収穫されなかったいろいろな作物がそのまま残っている畑で、いま育てられているのはキャベツのようだった。ホトケノザが見た目キャベツと同じくらいの面積を占めてたくさん咲いていた。


また別の畑では、キツネノボタンの仲間に見える黄色の花が光っていた。やはり畑は春が早い。畑の端にはなぜかオーブントースターが放置してあり、そのまわりをオオキバナカタバミの花が明るく取り囲んでいた。


道の記


春の小径は、あれから寒かったのか、緑だった草がかなり枯れ色になっていた。そのなかでホトケノザが茂って咲いていた。オオイヌノフグリがきょうの花を終えて畳んでいた。

2019年1月27日

道の記


セイヨウタンポポの電柱がなくなっていた。これまでふもとにさまざまな草が生えては姿を消していったが、電柱がなくなるとは思わなかった。電柱が立っていた跡は舗装され、その舗装の隅で、以前から生えていたスズメノカタビラが、小さな穂を付けていた。

道の記


駐車場の中に1本の木が立っていて、その木はたぶんここが駐車場になる前からここにいて、残してあるのだなと思っていた。通るたびに見ていた。その駐車場がフェンスに囲まれていた。フェンスの切れた所から見てみたが木はいなくなっていた。重機が地面を平らにしているところだった。

道の記


前にどなたかが手入れをしていた街路樹ふもとのヤナギバルイラソウは、色は褪せたように見えたものの、枯れずにいた。


風鈴のように歩けばいい、と思った。風に吹かれて鳴りながら。考えながらではなく、鳴りながら。


傾いてきた日差しが明るかった。


古いお屋敷の跡地は掘削のような工事が進んでいた。敷地に緑はいっさい見えなかった。


月が明るかった。街の明かりの抜きん出たひとつのように照っていた。

道の記


街路樹植え込みのモウコタンポポがどうしているか見てみたけれどもわからなかった。草取りからあまり時間が経っていない様子に見えた。街路樹のうちの1本が切り株になっていた。陽が斜め前からまっすぐに差していた。

2019年1月15日

道の記


丘が残っているほうの大クスノキの林。その道を通ったのはもう夜になってからだったが、丘の上にクスノキの切り株が変わらずに、祭壇のように立っているのが見えた。切り株は今夜はむしろ、暗い空に向かって自分が祭祀を執り行なっているように見えた。丘の中腹を囲むように、他のクスノキの切り株たちがひこばえを茂らせて並んでいた。

道の記


草を見ながら歩道を歩いていて、ナズナのように見える枯れた草を見つけた。しゃがんで見てみるが、ナズナではない。なんだろうと考えながら見ていて、オッタチカタバミだと気が付いた。葉が茎の上のほうに寄っているので、ナズナが実をつけて枯れた跡のように見えたのだ。あまり人通りが多くない歩道の端で、生きた証を掲げるように立っていた。


以前は何か植えられていたのかもしれない植え込みにスミレの葉がびっしりと生えていた。壮観だった。その中にぽつんと、ナズナが花を咲かせていた。ホトケノザもところどころに混じっていた。


大きなクスノキだった。全体をカメラに収めるのは難しい。少し離れて、まず梢のほうだけを写した。私の真後ろに停めてあった自転車が心配になったのか、神社の境内で遊んでいたこどもさんが自転車に駆け寄ってきた。

2019年1月14日

道の記


歩道の車止めのところでアレチハナガサが咲いていた。アキノエノコログサらしき草が、穂をこれから伸ばそうとしていた。その少し先ではヒメジョオンが咲いていた。春でも夏でも秋でもあるようだった。しかしほんとうはいまの季節を耐えて暮らしているのだろう。


宅地開発の大クスノキの林は完全に造成されて、建物が建つ前で工事が止まっている状態だった。クスノキを思わせる何物もなかった。道の際に何か輪生している葉があった。この葉がきっとこのあと、何かを伝えてくれると思った。


道に面しているお家の梅の木が伐られていた。庭木をすべて伐った様子だった。駐車スペースに蝋梅の幹や枝が、花を咲かせたまま横たわっていた。


鶏頭の花はしおれていた。風に、きっと音叉の棒が揺れるのはこんなふうにだという感じで、はじかれるように小さく揺れていた。


田んぼのコスモスが一輪だけ咲いていた。というより、花を残して枯れているようだった。田んぼには小さく穂を実らせた刈り跡の稲の株が白く並んでいた。


遠くの山を見ていると祖父を思う。山を教えてくれたのは祖父だった。何も変わらずに暮れ色をしている山並みを見ていて、山に行かないと、と思った。でもその前に、この果てなく変えられてゆく道を行かなければいけない。

2019年1月8日

道の記


クサギのトンネルだった場所は伐られたどの木もまだ芽を伸ばすのにゆっくりしている。そう思っていたが、トンネルの出口にあたる場所に、種類を知らない細い木が残っているのを見つけた。それも何本も。花を終えた跡がある。次は彼らが先んじることになるのかもしれない。


その近くのツワブキも花をほぼ終えていた。1つだけ咲いていた。


桜が撤去された大通り。桜がいた敷地のそばで、抜かれた草が路上に放置してあった。ノゲシだった。花はなかば綿毛になっていた。敷地の砂利の上に移した。大通りに6時の鐘が鳴り響いていた。

道の記


むかし一度通ったことがある小山の山裾の道。そのときはシロバナタンポポが咲いていた。きょうはシロバナタンポポは見つけることができなかった。スイバやアザミのように見えるロゼットが広がり、ホトケノザが明るく咲いていた。


思い出のある遠い山並み、高架線路がなければ水平線が見えていただろう遠くまで広がる畑の平野。川には荻がたくさんの穂を立てたまま。秋を超えた何か知らない季節のようだった。


道の脇下の畑の端に、今年はじめて見る菜の花を見つけた。何か間違えたみたいに花がうなだれていた。大きなキャベツが葉を広げに広げていた。


むかしここから川が氾濫したと聞いた堤防の上を行く。何にも使われていない様子の土地のただなか。他に誰も見えない。セイタカアワダチソウと荻の穂が一面を覆って夕日に照っていた。堤防の道が大きく曲がってくるその向こうから犬の散歩の方々がやってきて、私が見えたとおぼしきあたりでなぜか引き返していった。

道の記


桜の坂道はすっかり変わった。今年このあとさらに変わるという。御帰省中らしき御家族が小さくなった坂を歩いて登っておられた。坂道の横では高架工事が進んでいた。道の端のノゲシが花を咲かせていた。

2018年12月31日

道の記


どこで聞いたかわからない、栄光のワインディングロード、という言葉がふと思い浮かんだけれど、栄光は何もなかった。高台へ向かうつづら折りの道を歩きながら、つらかったことがたくさん思い出された。それでもきょうのこの晴れが、夕日が、これまでにあの場所で倒れ倒されていったたくさんのいのちが向こう側で受け容れられ、すでに救われていることを、この世に証しているように思えた。

見事な日没だった。

道の記


黄色のコスモスは生涯を終えていた。ありがとう、おつかれさま、と声を掛けた。


新しい駅へ続く小径は、ホトケノザがよりいっそう茂っていた。キツネノマゴは姿がなくなっていた。いまはこの春の小径を通って春へ向かうときだ。

道の記


昨年ホウキギクが出ていた道端は、今年は草取りがあった影響かホウキギクは出なかった。いまは花も穂もない小さな草がぱらぱらと並んでいる。次の春には花も咲くだろう。


電柱ランタナは冬を耐えるつもりのようだった。その小脇に別の小さな草がかくまわれて育ちつつあった。

道の記


モウコタンポポがいる場所が掘り返されていた。端のほうに1株、根元周りを削られながらロゼットが残っていた。前にも同じことがあったが、根が残っていれば復活できるだろう。信じて待とうと思う。


2018年12月29日

道の記


伐採に反対する声が上がっていた街路樹のケヤキが伐られたと新聞で読み、現地へ行った。道の両側のケヤキが1本を残して伐られていた。この前ここを訪ねたときに私が呼び止められた気がした銀行横のケヤキも、切り株になっていた。切り口はまだみずみずしかった。切り株を見ていると、道路を行く車の音がふととだえ、一瞬、何も音がしない時間が来た。そのとき、木の、ほんとうの声が聞こえた気がした。

2018年12月24日

道の記


夏、ビルの谷間に出ているのを見つけたヨウシュヤマゴボウは、半分近く枯れていたけれども半分は緑を残していた。黒い実をたくさんたくさん実らせていた。大きな仕事だったのだ。


大通りに面していた桜がなくなったその跡地に、大きなクリスマスツリー型のイルミネーションが輝いていた。


「救い主生まれる」の貼り紙が出された教会の前を通って、ふいに思った。木に、草に、救い主が生まれるのはいつになるだろう。


クリスマスイブに訪ねているこぶしの木は、この前と変わらずに春の準備を進めていた。夜の街はにぎわいをいっそう増して、そのにぎわいの上に広がるしずかな領域に、木はすでに届いているようだった。

2018年12月23日

道の記


繁華街の歩道の路面にトウカエデの葉が足跡のように散らばっていた。歩き回ったというより、踊り明かしたような足跡だった。


中心街の木々は電飾が巻かれていた。ただ、木に配慮してのことか、それぞれの木の枝全体のうち半数くらいだけに電飾が施してあって、残る半数の枝は黒々としていた。四つ角のこぶしもそうしてあった。金の光に照らされた冬芽が、あたたかそうにも寒そうにも見えた。


いつもクリスマスイブに訪ねるこぶしの木を少し早めに訪ねた。今年は冬芽をたくさん付けていた。今度の春にはこれまで以上にたくさんの花を見せてくれるだろう。向こうで、そのこぶしの木よりはるかに大きなクリスマスの電飾ツリーが、にぎやかに、でもしずかに、輝いていた。


2018年12月16日

道の記


先日、街路樹の下のヤナギバルイラソウを剪定している方を見かけた。市が植えているものではなさそうで、おそらく近くの方だったのだろう。きょう通った同じ道の少し手前の場所で、ヤナギバルイラソウが寒さのためか少し色を変えてしなだれていた。