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2017年10月15日

思うこと

このごろ、草を見ていて草の種類を勘違いすることが多くなってきた。あとからわかったり、あとで気になって図鑑に当たると違うことが書いてあったりする。以前は「体得」していた草の違いが、細部にいちいち当たらないと(そうやってもいまひとつ)わからないということが多くなってきた。

しばらく前に、小径でポプラの幼木を見た。それが、そのあとあらためて見たらナンキンハゼだった。そばまで寄って見ていたのにまちがえていた。

説明するときには図鑑で示すようにしようと思う。また、わかっているつもりの草でもときどき現地で図鑑に当たって区別点を確認するようにした。ただ、なにかそういう話の前に、(草や木の)「種類」という事柄自体が自分にはぼんやりしてきたような気がする。

ふだんナンキンハゼよりはポプラを気にしているので、小径の木もナンキンハゼだったら記憶に残らなかったのではと思う。最初ポプラと思って目を留めたのでも、そのことでそのナンキンハゼの木を自分は知っていま覚えている。もしナンキンハゼですらなかったとしても、その木をしばらくは忘れないだろう。

現実に「種類」に依拠して進めないといけない諸々の事々のいっぽうで、「種類」にとらわれながら草を木を見ているその見方は絶対か、ということを、自分の認知能力の側から問いかけられている気もなんとなくする。

それも「種類」から始まった話ではある。

草を見るのを始めたときにはたんぽぽだと思ってノースポールを見ていた。それをただの「まちがい」として正して通り過ぎてきたのだったけれども、いまはそこからいろいろと考えてみたくなる。