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2017年9月4日

道の記


まちなかでなくもっとたくさんの緑がふつうにある場所で草や木を見ていたら、こんなにまでひとつの草ひとつの木のことでつらい思いや悲しい思いをしなくて済んだのではという気持ちになることがある。

草も木もわたしが見ていようといまいと自分のいる場所自分のいる状況なりの命を生きて死ぬ。誰が見なくてもいいのだ。そう思うかたわらで、まるで呼び出されたかのように、たまたま通った道、たまたま曲がって入った道で、伐られたばかりの木、明日からの工事告知が出ている場所の草に出会ってきた。

そのことを意味付けなくてもいい。ただ自分はそうして草を木を見てきた。そんなことを今夜も考えながら歩いていた。

そのすぐ先で、道から見えていた大クスノキの林がなくなっていた。重機が何台も入っていて、丈の高い切り株もひとつ見えた。その向こうでアークトゥルスが低く輝いていた。



ほかの草が生えられるよう、茂りに茂ったメヒシバをはさみで刈り込んでいたら、指先を切った。それで刈るのををやめて手でむしっていたが、2本が根から抜けてしまった。抜くつもりはなかったが、植え直す手間をとらずに根を下にして置いてきた。

申し訳ないことだったと思う。

そしてそのメヒシバも誰かは見ていたかもしれない。