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現在、機器の問題でブログの更新がやや難しくなっています。最新の記事はツイッターのほうに投稿し、このブログには可能なときに後追いで掲載するようにします。1日の記事が多いときにはブログに一気に投稿する場合があります。2020年9月18日(2021年6月1日修正)

2019年7月30日

道の記


クサギのトンネルだった場所に差し掛かる直前に、クサギの香りがした。もう夜だったので灯りを付けていたが、その灯りでクサギの花が歩道の路面脇に落ちているのが見えた。見上げると、高いコンクリート擁壁の上に、伐採を免れたクサギらしき木々が並んでいて、花を付けているのが暗がりの中ぼんやりと見えた。その視野の中で、空を明るい点光がかすめた。イリジウム人工衛星のようだった。


猫が有料駐車場のまんなかで向こうを向いてべたっとしていた。茶色の猫で、白色の灯りに照らされて、駐車場の黄色の線とほとんど区別がつかなかった。


ほかの場所ではオニタビラコを見かけたが、2つ信号のオニタビラコの場所ではオニタビラコは出ていないようだった。エノコログサが車のライトや街の灯りを受けていた。


道の記


ホリホックは花が終わっていた。ありがとう、と言いながら花を咲かせていた茎にさわった。そうしていたら、低い茎にひとつ花が咲いていた。電柱のアース線というのか、その陰になっていて気づくのが遅れた。花は陰に向かって咲いていた。


山はやっぱり呼んでいるようだった。あの懐かしく見える山はしかしまだ3回しか登ったことがないと、思い出を数えて思った。思い出はぜんぶこどものころの遠い思い出だったが、きょうもあのころの自分のような誰かがその山に登っているという気がした。


道の脇のカンナは咲いていた。もうこのお家はカンナを咲かせるつもりがないのかと心配していた。カンナの花を見られて、ここまで歩いた甲斐があったと感じた。


ときどき花畑になる田んぼは今年は田んぼになっている。その田んぼの手前の歩道脇に、低い丈のコスモスが2輪咲いていた。田んぼの稲はまだこれからだった。


道の記


旧国道沿いの大きなお店の駐車場の端で、女性の方が何か言っておられた。歩いているうちに、こどもさんが見えてきた。そのこどもさんに、ばったもおらんね、と話しかけておられる。アキノエノコログサらしき草が敷地の隅にちいさな野原を作っていた。

アキノエノコログサはその先で株立ちになってたくさんの穂を放射状に付けていた。このかたちのアキノノゲシはちょっとめずらしいな、と思っていたら、すぐとなりに、タチスズメノヒエがまるっきり同じ角度でたくさんの穂を放射状に広げていた。


山が見えるほうの大くすのきの林だった場所は構造物が大きくなった。歩道植え込みのくすのきはまた少し伸びてきた。敷地界にヨウシュヤマゴボウが生えていた。花を咲かせ始めたばかりのようだった。キカラスウリやセイバンモロコシもいた。わずかの隙間に草たちが茂みを作り始めていた。

その様子を見ながら先へ行こうとすると、隣の大きなお家があとかたもなくなっていた。高いコンクリート擁壁の上にいろいろな木々が植えてあって、下によく実が落ちていたのだった。しかし木々もまったくなくなってしまったように見えた。そして、落ちていたのも何の実だったかもう思い出せなかった。


2019年7月29日

道の記


花壇の田んぼは舗装されて駐車場になっていた。花壇はそのまま残った。マリーゴールドやポーチュラカや種類を知らない花が可憐に咲いていた。コモチマンネングサは花は見えず、ただ緑にしていた。


山には横から陽があたっていた。彫りの深いあざやかな緑。あの稜線まで駆け上がることはいまの自分には無理だ。でも、いつかもういちど登りたいという気持ちもわずかに残っているようだった。


桃には実がなっていた。そこまで来ると山は遠くも近くもない、いつものそこにある景色だった。


道の記


以前、夜に疲れて歩いていたその通りすがりに、ある公の施設の敷地に見えたユッカの花になぐさめられた。その施設がなくなってだいぶ経った。きょうやはり疲れてその横を歩いていて、跡地の端に、キカラスウリの花を見つけた。おかげでもう少し歩ける気持ちになれた。


2019年7月26日

道の記


以前マンションの植え込みにたくさんのすみれを見つけたその通りは、歩いていると道端のあちこちにすみれが出ていて、すみれ通りだったのだとだんだんわかってきた。きょうもすみれをたくさん見た。花は咲いていない。それからヨツバハコベも少し出ていた。


以前ポプラが並んでいた再整備公園の外れに残っているエノキとセンダンの小さな木の下で、芙蓉が花を咲かせていた。


疲れていたが、少し遠回りをして、マンション前の電柱のところを通った。あさがおがいるはずだった。以前あさがおを見た電柱のふもとには出ていなかった。そのすぐそばの、ガードレール支柱の脇から、つるが伸び出ていた。つるは短くて花はしぼんでいたが、元気そうだった。



小さな交差点の角に、手向け花を見つけたのは何年前だったか。名前がひらがなで書かれた小さな石と、小さな花瓶が置かれていて、そこに花があげてあった。通るたびに新しい花があげてあるのを見ていた。この1年ほど、花を見なくなった。何かの周年が過ぎたのだろう。きょうも花瓶は空いていた。交差点を渡ると、そこの電柱のふもとで、すみれが花を終えていた。


2019年7月25日

道の記


木造の昔ながらのお家が無くなって更地になっていた。駐車場になる様子。塀や垣根がなく、つわぶきが道の脇で咲いていたのだった。砂利が一面に敷かれた敷地の隅にいくらかの草が生き残っていた。


しばらくぶりに通った電柱ランタナはあれからまた伐られたのか、近づくまで何の緑も見えなかった。そばに来てみると、とても小さな葉が数枚出ていた。


電柱ねこじゃらしは絶えたままだった。その近くのマンションの表玄関の植え込みの陰に、ねこじゃらしがちらっと見えていた。


草が生えている街のほうがいい。そう思いながら歩道を歩いていると、すぐ先の駐車場の入口のブロック塀の脇から、ハゼランが花をそっと出していた。その入口に差し掛かって横を見ると、ハゼランが塀沿いに並んで細い花畑をつくっていた。


2019年7月22日

道の記


柿の木や唐実桜のいた線路脇は構造物と砂利とでほぼ占められていた。その脇にノゲシらしき葉がいくらか出ていた。


桜が撤去されて新しい木が植えられて5年。地面から、ひざの丈ほどの桜の芽がすっくと伸びていた。近くの桜の木の根から出てきたのだと思うが、一瞬、あのむかしの木のことを思った。


ヒメオドリコソウの場所に差し掛かったが、そこのヒメオドリコソウを今年見た記憶がない。今年はその時期にここを通らなかったのか、通ったときに忘れていたのか。もう生え残っている時期ではない。ヒメオドリコソウではなくエノコログサが明るく並んでいた。


かろうじて彩雲になった青白いさざなみの雲。その手前の、大きく伸び上がってかすかに橙に照らされている積乱雲。先へと続く道。梅雨も終わりそうだ。


2019年7月16日

道の記


作業着の方が自動販売機で飲み物を買っていた。このあたりで新築工事があったかなと思いながら道を行くと、駐車場になっている空き地の草が刈り倒されていた。駐車場の入口にひさかきだと思う小さな木がいて、きのう見たときはなぜか葉が無くなってしまっていて下のほうだけ新芽が出ていた。その木のところは何も刈られていなかった。駐車場の端でエノコログサが少しだけ残って、穂を掲げていた。


交差点のランタナも刈られていた。育てられているのではないようだ。でも新芽がたくさん出ていた。じき、茂り始めることだろう。


ここでかがみ込むと後ろに並ぶお家のどこかから見られているかもしれないと思いつつ、工場のフェンスの下のトウバナをかがんで見る。花穂がけっこう高い。このあたりのトウバナとしてはよく伸びている。見終えて立ち去るときには後ろのことはすっかり忘れていた。


2019年7月14日

道の記



住宅地の中の田んぼの脇に台付きの小さな花壇が作ってあり、いろいろな花が植え替わりながら咲いている。秋には実った稲の穂と花壇の花が競演していた。その田んぼが埋め立てられていた。花壇はポーチュラカやゼラニウムが咲いていた。花壇の下で、以前から田んぼの畦にいたコモチマンネングサが花を咲かせていた。


伐採木置き場のいちょうの切り株は、たくさん出ていた芽が刈り込まれたようで、数本のひこばえが伸びていた。切り株は草たちに取り囲まれていた。タチスズメノヒエが早くも穂を高く伸ばしていた。


道の記


柿の木や樫の木の切り株は元気に葉を茂らせていた。まわりの草がばっさり刈り取られたようだが、切り株そのものには手を出していないように見えた。柿の木は若い芽を付けていた。


足元にイヌビワの実がたくさん落ちていた。上は擁壁になっていて、その上にいろいろな木がこぢんまりと生えている。見上げたがそのときはイヌビワの木を見つけられなかった。帰りにふたたび見上げたら、すぐ上にやや大きめのイヌビワの木がいた。さっきいなかったはずはないので、私がやはり植物を見分けづらくなってきているのだろう。イヌビワは毅然とも平然とも言えそうな風情で樹冠を張り出していた。


道の記


大くすのきの林だった丘はまわりに土留めが出来ていた。マンションの大きな広告看板が掛けられていた。最後まで残っていた大くすのきの切り株はもう見えず、少し前に撤去された大くすのきの裁断された切り株が、土の丘と工事の全体を見渡せる高みに置かれたままになっていた。以前切り株から伸びていた芽はきょうはわからなかった。


道の記


セイヨウタンポポが出ていた電柱が無くなってしばらく経つ。いま当時の電柱脇から出ている草はスズメノカタビラが2株。近くの排水溝の網の下にはカニクサなどの草が生えているが、上はもう草が生える隙間自体がほぼない。スズメノカタビラもいまは穂はない。小さく葉を広げていた。



2019年7月10日

道の記


はじめて通った去年の秋にキバナコスモスが咲いていた土の駐車場の土手で、ネジバナが数株咲いていた。ああ、ここはそういう花々の場所だったのだなと思った。ネジバナはいまだけの花穂をういういしく上へ伸ばしていた。


ふだん歩く街ではあまり見ないコスズメガヤが道沿いにぱらぱらと立っていた。隣を大きな車がときどき通って行く。道のりはまだ長かった。


畑だと思っていたけれど田んぼになっていた。空はいろいろな雲が並んでいた。春に見た道端の菜の花はもうどこから生えていたかわからなかった。


2019年7月8日

道の記


植木鉢のイヌビワが鉢ごと無くなっていたお店は、解体されて無くなっていた。小さな敷地だった。その敷地の隅に別のイヌビワが出ていたのだが、そのイヌビワは伐られていた。切り株と呼びづらいほど細い幹が残っていた。根が残っているかぎりまた伸び出すことだろうけれど、この敷地がこのあとどうなるのかはよくわからなかった。


道の記


春の小径は苗代ではなくなっていた。苗が並んでいた所にトキワハゼの花が咲いているのが見えた。


2019年7月4日

道の記


あじさいの小径を2週間か3週間ぶりに通った。あじさいの花はだいぶ緑になっていた。かわりのようにペロペロネがたくさん花をつけていた。


道の記3年


ツイッターで道の記を書き始めて3年経った(このブログに載せるようになってからはまだ2年経っていない)。自分がどのように道端の草や木を見ているか、その一端でも書ければと思って、そして道端で草や木がどのように生きているか、その一端が残せたらと思って、書き続けてきた。このまま書き続けることに意味があるのかどうかよくわからないが、もうしばらく続けてみようと思う。