道ゆく先々での、木々草々花々などさまざまの出会いとその後を、一筆箋に綴るつもりで。
From the Wayside: about my acquaintances of trees, flowers, weeds and others (written in Japanese)
2017年10月31日
2017年10月29日
道の記
ふだん歩いていて気付かず自転車に乗っていて気付いた道の脇のヒメムカシヨモギは、もうあとかたも見あたらない。生えていた舗装とブロックの隙間には苔も生えていて、その苔からなにかの草が芽生え始めていた。双葉と本葉とで十字を作っていた。
夕日に向かって歩くのはすがすがしかった。タイル歩道の脇に立ち並ぶメリケンカルカヤの穂に夕日の光が輝いていた。
道沿いの、伐採された大くすのきの林はあまり様子が変わっていなかった。残されている伐り株からは、別の場所の宅地開発中のくすのき林が以前そうだったように、空に向かって小さな枝が伸び上がり始めていた。となりで、同じくらいの高さのすすきが揺れていた。
千日紅というのか、いくつもの赤い花をつけた長い茎が、路上で平らになっていた。誰かが花屋さんで買って帰る途中で落としたのだろう。土のあるところに移そうかと思ったが、落とした人が探しに戻ってくるのではと思い、そのままにしてそこを離れた。でも気になって、帰りに同じ道を通った。花の茎は日暮れた路面に変わらずに張り付いていた。今度は拾い上げて路側に移した。花も茎もひんやりとしていた。
2017年10月28日
道の記
乗っていた電車から、沿線の唐実桜の伐り株が掘り起こされているのが見えた。回り道をして現場に行った。撤去作業の最中だった。重機を操作しているのが以前お世話になった方で、私に気付いたか気付かなかったかわからなかったが、険しい顔つきで作業を続けておられた。
通学路で通っていたころから林だった道沿いの土地に、しばらく前に大きく手が入った。そのあと、枝がほぼすべて落とされた高木の幹が何本か立ったまま残されていた。幹は伐られる様子がなく、やがて幹の上や横から芽吹き始めて、このごろはふたたび木らしい姿に戻りつつあった。その木々がなくなっていた。土地は広く明るくなっていた。
工事が進む踏切のそばで、セイタカアワダチソウがこまやかに咲いていた。その向こうの遠くに、山並みが見えていた。帰りはいつもあの山並みに向かって帰ってきたのだった。山は、そろそろこっちへ戻ってこいと言っているような気がした。
道の記(五ヶ山・東小河内)
五ヶ山・東小河内の桜の下に見えていた小さな木々は柿の木だった。1本の木は樹冠のすぐ下までダム湖の水に浸かりながら、枝いっぱいにあざやかな柿色の実をつけていた。もう1本の木は枝に残った実を水に浸していた。
2017年10月22日
道の記
クサギのトンネルの下でツワブキがつぼみを用意していた。クサギの実が小枝の先ごと落ちていた。手に取って路側に移した。そこからどこへゆくだろう。
近く取り壊されるだろうと思っていた建物が取り壊されていた。建物のかたわらにいたイヌビワの幼木がいなくなっていた。敷地には街路樹のクロガネモチらしき葉がいくつか落ちていた。イヌビワは葉もなにもわからなかった。
風はしだいに荒れ始めた。地上から人がいなくなり、かわりに街路樹のクロガネモチの葉がタイル舗装の歩道を埋めていた。
暗い雲の下、こどもたちが風に惑うボールを遊んでいた。ヒロハホウキギクにまぎれてホウキギクが1本、綿毛の準備に入っていた。
2017年10月19日
道の記
すみれのプランターにカメラを構えて写真を撮っておられる方がおいでだった。プランターの中のキツネノマゴにヤマトシジミがとまっていた。
ヤマトシジミと思って近づいてみるとクロマダラソテツシジミだったということがこのごろ多くなった。
大きなキンモクセイの下を通っていて、ばらばらと音がした。雨かと思ったら、キンモクセイの花が降ってきた。枝先から細くて小さな青虫が糸で垂れていて、その糸に花がいくつか引っ掛かっていた。1匹の青虫が花をつかまえたみたいにして花とくっついていた。
その少し先では、ヒイラギモクセイの木からたくさんの花が垂れ下がっていた。飾り物のようだった。
2017年10月18日
2017年10月17日
2017年10月16日
2017年10月15日
思うこと
このごろ、草を見ていて草の種類を勘違いすることが多くなってきた。あとからわかったり、あとで気になって図鑑に当たると違うことが書いてあったりする。以前は「体得」していた草の違いが、細部にいちいち当たらないと(そうやってもいまひとつ)わからないということが多くなってきた。
しばらく前に、小径でポプラの幼木を見た。それが、そのあとあらためて見たらナンキンハゼだった。そばまで寄って見ていたのにまちがえていた。
説明するときには図鑑で示すようにしようと思う。また、わかっているつもりの草でもときどき現地で図鑑に当たって区別点を確認するようにした。ただ、なにかそういう話の前に、(草や木の)「種類」という事柄自体が自分にはぼんやりしてきたような気がする。
ふだんナンキンハゼよりはポプラを気にしているので、小径の木もナンキンハゼだったら記憶に残らなかったのではと思う。最初ポプラと思って目を留めたのでも、そのことでそのナンキンハゼの木を自分は知っていま覚えている。もしナンキンハゼですらなかったとしても、その木をしばらくは忘れないだろう。
現実に「種類」に依拠して進めないといけない諸々の事々のいっぽうで、「種類」にとらわれながら草を木を見ているその見方は絶対か、ということを、自分の認知能力の側から問いかけられている気もなんとなくする。
それも「種類」から始まった話ではある。
草を見るのを始めたときにはたんぽぽだと思ってノースポールを見ていた。それをただの「まちがい」として正して通り過ぎてきたのだったけれども、いまはそこからいろいろと考えてみたくなる。
しばらく前に、小径でポプラの幼木を見た。それが、そのあとあらためて見たらナンキンハゼだった。そばまで寄って見ていたのにまちがえていた。
説明するときには図鑑で示すようにしようと思う。また、わかっているつもりの草でもときどき現地で図鑑に当たって区別点を確認するようにした。ただ、なにかそういう話の前に、(草や木の)「種類」という事柄自体が自分にはぼんやりしてきたような気がする。
ふだんナンキンハゼよりはポプラを気にしているので、小径の木もナンキンハゼだったら記憶に残らなかったのではと思う。最初ポプラと思って目を留めたのでも、そのことでそのナンキンハゼの木を自分は知っていま覚えている。もしナンキンハゼですらなかったとしても、その木をしばらくは忘れないだろう。
現実に「種類」に依拠して進めないといけない諸々の事々のいっぽうで、「種類」にとらわれながら草を木を見ているその見方は絶対か、ということを、自分の認知能力の側から問いかけられている気もなんとなくする。
それも「種類」から始まった話ではある。
草を見るのを始めたときにはたんぽぽだと思ってノースポールを見ていた。それをただの「まちがい」として正して通り過ぎてきたのだったけれども、いまはそこからいろいろと考えてみたくなる。
2017年10月14日
2017年10月13日
道の記
くすのきの林になっている小山の裾野で宅地開発が進んでいて、そこをひさしぶりに通りかかった。くすのき林が全部伐採されていた。この前見た別の場所のくすのき林と同じように、大きなくすのきの高い伐株がところどころ残っていた。伐採されてしばらく経つらしく、伐株からは一様に芽が出て小さく茂っていた。ひこばえというより、短くなった幹からあらためて枝をやり直そうとしているように見えた。
あたらしい枝を伸ばそうとしているその姿を見ていて、ふと、人間の開発行為もこの木々たちにとってはひとつの「自然災害」でしかない、と思った。風で折れた木や落雷した木が別の幹や枝を伸ばして復活するように、被害を受けた痛手をそのままに、そこからやり直そうとしている。その開発が人間社会でどういう価値や意義を持つかにかかわらず、木々はそれを「自然災害」と同じに受け止めて、同じにやり直そうとしている。
撤去予告が出ていた柑橘の木は伐株になっていた。ひこばえが1本、低く伸び出ていた。まだ少ない葉のひとつにチョウの幼虫がしっかりくっついていた。
2017年10月6日
道の記
ナガミヒナゲシが薬で枯らされた植え込みに、ヒメクグやコゴメガヤツリが出てきた。
すみれがいるプランターに、ツマグロヒョウモンが舞っていた。それにつられて近づいてみると、プランターの隅にキツネノマゴが咲いていた。今季初めて見るキツネノマゴの花だった。ツマグロヒョウモンは、たまごを産みつける格好をしながらすみれのあたりを行き来していた。
以前ヒメウズがいた、そして更地になってからはねこじゃらしがたくさん出ていた古い建物の跡地に、マンションが出来上がった。きれいな植え込みが作られ、呼び名をよく知らない木々草花が並んでいた。敷地のはじっこのはじっこに、エノキグサが1本生えていた。その1本がこの土地のむかしを語っているようだった。