道ゆく先々での、木々草々花々などさまざまの出会いとその後を、一筆箋に綴るつもりで。
From the Wayside: about my acquaintances of trees, flowers, weeds and others (written in Japanese)
2019年1月31日
道の記
この前その道を通ったときに、駐車場の奥の柿の木がなくなっているらしきことに気付いた。似たような駐車場が多い一帯なので私が駐車場を間違えているのかもしれないと思い、今回気をつけながらその道を通った。やはり柿の木はなくなっていた。切り株が残っているかどうかは車が手前に停まっていたためわからなかった。
昨年収穫されなかったいろいろな作物がそのまま残っている畑で、いま育てられているのはキャベツのようだった。ホトケノザが見た目キャベツと同じくらいの面積を占めてたくさん咲いていた。
また別の畑では、キツネノボタンの仲間に見える黄色の花が光っていた。やはり畑は春が早い。畑の端にはなぜかオーブントースターが放置してあり、そのまわりをオオキバナカタバミの花が明るく取り囲んでいた。
2019年1月27日
2019年1月15日
道の記
草を見ながら歩道を歩いていて、ナズナのように見える枯れた草を見つけた。しゃがんで見てみるが、ナズナではない。なんだろうと考えながら見ていて、オッタチカタバミだと気が付いた。葉が茎の上のほうに寄っているので、ナズナが実をつけて枯れた跡のように見えたのだ。あまり人通りが多くない歩道の端で、生きた証を掲げるように立っていた。
以前は何か植えられていたのかもしれない植え込みにスミレの葉がびっしりと生えていた。壮観だった。その中にぽつんと、ナズナが花を咲かせていた。ホトケノザもところどころに混じっていた。
大きなクスノキだった。全体をカメラに収めるのは難しい。少し離れて、まず梢のほうだけを写した。私の真後ろに停めてあった自転車が心配になったのか、神社の境内で遊んでいたこどもさんが自転車に駆け寄ってきた。
2019年1月14日
道の記
歩道の車止めのところでアレチハナガサが咲いていた。アキノエノコログサらしき草が、穂をこれから伸ばそうとしていた。その少し先ではヒメジョオンが咲いていた。春でも夏でも秋でもあるようだった。しかしほんとうはいまの季節を耐えて暮らしているのだろう。
宅地開発の大クスノキの林は完全に造成されて、建物が建つ前で工事が止まっている状態だった。クスノキを思わせる何物もなかった。道の際に何か輪生している葉があった。この葉がきっとこのあと、何かを伝えてくれると思った。
道に面しているお家の梅の木が伐られていた。庭木をすべて伐った様子だった。駐車スペースに蝋梅の幹や枝が、花を咲かせたまま横たわっていた。
鶏頭の花はしおれていた。風に、きっと音叉の棒が揺れるのはこんなふうにだという感じで、はじかれるように小さく揺れていた。
田んぼのコスモスが一輪だけ咲いていた。というより、花を残して枯れているようだった。田んぼには小さく穂を実らせた刈り跡の稲の株が白く並んでいた。
遠くの山を見ていると祖父を思う。山を教えてくれたのは祖父だった。何も変わらずに暮れ色をしている山並みを見ていて、山に行かないと、と思った。でもその前に、この果てなく変えられてゆく道を行かなければいけない。
2019年1月8日
道の記
むかし一度通ったことがある小山の山裾の道。そのときはシロバナタンポポが咲いていた。きょうはシロバナタンポポは見つけることができなかった。スイバやアザミのように見えるロゼットが広がり、ホトケノザが明るく咲いていた。
思い出のある遠い山並み、高架線路がなければ水平線が見えていただろう遠くまで広がる畑の平野。川には荻がたくさんの穂を立てたまま。秋を超えた何か知らない季節のようだった。
道の脇下の畑の端に、今年はじめて見る菜の花を見つけた。何か間違えたみたいに花がうなだれていた。大きなキャベツが葉を広げに広げていた。
むかしここから川が氾濫したと聞いた堤防の上を行く。何にも使われていない様子の土地のただなか。他に誰も見えない。セイタカアワダチソウと荻の穂が一面を覆って夕日に照っていた。堤防の道が大きく曲がってくるその向こうから犬の散歩の方々がやってきて、私が見えたとおぼしきあたりでなぜか引き返していった。