道ゆく先々での、木々草々花々などさまざまの出会いとその後を、一筆箋に綴るつもりで。
From the Wayside: about my acquaintances of trees, flowers, weeds and others (written in Japanese)
2018年12月31日
2018年12月29日
2018年12月24日
道の記
夏、ビルの谷間に出ているのを見つけたヨウシュヤマゴボウは、半分近く枯れていたけれども半分は緑を残していた。黒い実をたくさんたくさん実らせていた。大きな仕事だったのだ。
大通りに面していた桜がなくなったその跡地に、大きなクリスマスツリー型のイルミネーションが輝いていた。
「救い主生まれる」の貼り紙が出された教会の前を通って、ふいに思った。木に、草に、救い主が生まれるのはいつになるだろう。
クリスマスイブに訪ねているこぶしの木は、この前と変わらずに春の準備を進めていた。夜の街はにぎわいをいっそう増して、そのにぎわいの上に広がるしずかな領域に、木はすでに届いているようだった。
2018年12月23日
道の記
繁華街の歩道の路面にトウカエデの葉が足跡のように散らばっていた。歩き回ったというより、踊り明かしたような足跡だった。
中心街の木々は電飾が巻かれていた。ただ、木に配慮してのことか、それぞれの木の枝全体のうち半数くらいだけに電飾が施してあって、残る半数の枝は黒々としていた。四つ角のこぶしもそうしてあった。金の光に照らされた冬芽が、あたたかそうにも寒そうにも見えた。
いつもクリスマスイブに訪ねるこぶしの木を少し早めに訪ねた。今年は冬芽をたくさん付けていた。今度の春にはこれまで以上にたくさんの花を見せてくれるだろう。向こうで、そのこぶしの木よりはるかに大きなクリスマスの電飾ツリーが、にぎやかに、でもしずかに、輝いていた。
2018年12月16日
道の記
マンション前の電柱ふもとの朝顔がどうしているか気に掛かっていたけれど、その道を行くことがしばらくなかった。だいぶひさしぶりにその道をバスで通った。バスからはその位置に緑らしきものは見えなかった。帰りにそこを歩いた。電柱の根元に枯れ色の小さな切り株があった。
橋の上から見る山は遠かった。陽を受けて陰影あざやかで手に取るように見えているのに。
夜にユッカの花に慰められた幹線道路沿いの施設跡地、敷地の端に何か丈の高い切り株が残されているのに気付いた。何の木かわからない。生きているかどうか道からではわからなかったが、生きているかどうかというよりただ屹立していた。
2018年12月12日
2018年12月2日
道の記
昨日、路面に蓑虫がいた。触ると生きているようだった。生きている芋虫や毛虫はどこへ行きたいかわからないので私は路上で見つけても動かさないことが多い。ちょっと心配だったがそのままにしておくことにした。今日、成り行きで昨日と同じ道を通ったが、蓑虫は踏まれていた。近くの木のふもとに安置した。
交差点のランタナは伐られていた。伐り株から小さな芽がたくさん出ていた。
伐採木置き場の伐り株イチョウはだいぶ落葉していたが、いま落葉しているということは元気にしているということだろう。
この道もしばらく通らないかもしれない、と思いながら歩いた。伐られた柿の木などの伐り株たちも変わらず元気のようだった。
大クスノキの林だった丘はさらに掘削が進んでおおむね表土がむき出しになり、丘の中腹に大きな伐り株が斜めに置いてあった。その向こうに、祭壇のように、緑の一切ないクスノキの伐り株が低くそびえていた。