道ゆく先々での、木々草々花々などさまざまの出会いとその後を、一筆箋に綴るつもりで。
From the Wayside: about my acquaintances of trees, flowers, weeds and others (written in Japanese)
2018年4月30日
道の記
大きな林だった場所はビルになるのだと書いてあった。赤土がうずたかく積まれ、木の根が横倒しになっていた。
電車から見える小さな公園の桜が、長らく大きく枝を張り出していたのだが、最近になって枝が落とされた。公園の近くをたまたま通ったので、落とされてから初めて立ち寄ってみた。桜はところどころの枝がなくなっていたが、じゅうぶん元気にしていた。休日の昼下がりに公園は誰もいず、となりの建物のほうからこどもたちの遊ぶ声が聞こえていた。
広々とした草地が工事されていた公園は、けっきょく芝生と砂地の公園になった。ただ、そのまわりにも草地だった部分があり、そこはそのまま残されていた。キランソウやコナスビがしずかに咲いていた。
道の記
大きな道に面したアパートか社員寮だったような建物が空になっていて、その建物の下にヒルザキツキミソウがたくさん咲いていた。
坂の上が開けているように見えたので上がってみた。小さな公園があった。できたばかりのように見える。木は小さくてまだ陰がない。誰もいない。となりは造成工事の途中だった。一帯が再開発かなにかでフェンスに囲われたり更地になっていたりして、それで開けて見えたのだった。そこに人がふたたび住むようになるというのは、いまの景色からはずいぶん遠いことのように感じられた。
フェンスに開いている窓の向こうに、あまり高くないポプラの木が細々と立っていた。1度伐られてそれからふたたび伸びたようにも見えた。次の建物が建つときにはどうしているだろう。
道の記
春に通っていた公園。再整備工事の際にカンサイタンポポをプランターに移植して土手に再移植した公園。毎年カンサイタンポポがかなりの数咲き、土手やその下でこどもたちが草や虫と遊んでいた場所だった。その土手が杭とロープで囲われていた。カンサイタンポポは咲いてはいたが、草遊びをしているようなこどもはいなかった。ボールがロープを越えて土手を転げ落ちていき、男の子が1人、ロープを越えて土手を駆け下りてボールを取って駆け上がってきた。
その公園に次に行くのは3年ぐらい経ってからにしようと思った。
イヌノフグリをときどき見に行っていた場所、道路の両側に薬が使われた形跡があり、イヌノフグリも何ももうわからないほど枯れていた。フラサバソウがいくらか形を残していた。1株、タツナミソウのように見える草がかろうじて生きていて、その姿が、何かを証言してくれているかのようだった。
2018年4月23日
道の記
坂はウマノアシガタらしき黄色の花に埋め尽くされていた。
開発中のくすのき林は丘の掘削が進んでいた。もう斜面には伐り株はなく、平らになった手前の地面に木の根が山積みになっていた。くすのきの、葉の香りではなく伐られたときの匂いがしていた。斜面の最上部にはちらちらと緑色が見えたが、伐り株のひこばえかどうかは私の目ではわからなかった。置かれた木の根のひとつが、こちらへ向かって大きく曲がりながら伸び出して、途中で切れていた。
その丘の道を降りると、道の片側だけ薬が使われたのか、草がことごとく枯れていた。ただアメリカフウロだけが、葉を紅葉させてわずかに緑味を残して横たわっていた。
何の種類の木かわからないけれど枝の先だけが歩道の路面に落ちていた。まだ初々しかったので、道端の土に差した。覚えておかなければと思う。
道の記
丘の上へと建て並ぶむかしながらの団地の坂道を見上げて、団地に住んだことがないのになにか胸をかきむしられるような懐かしさがわき上がった。私はこの景色のどこにいついたのだろう。
遠い山が霞んで美しいうすみどりをしていた。どこか帰る所をずっと探して歩いている気がしてきた。いや、帰りたい所はこの景色の中だ。この景色をここに立ち止まって座っていつまでも見ていたい。しかし人間社会がそれを許さない。日も暮れてこの景色も変わってしまう。なにか食べたくもなる。私はここにいつまでもいるわけにいかず、また歩き出すしかない。
そしてその先でまた、帰りたかった景色に出会う。立ち止まる。また歩き出す。そうやってきっとずっと歩いているのだろう。
道の記
イヌノフグリがいる場所をいくつか訪ねてまわった。うち1か所の道端では花が咲いていた。他の各所で見るイヌノフグリはもう花の季節が終わりかけている様子だったので、花が見られてうれしかった。
別の場所のイヌノフグリは、昨年この時期は桜蕊に埋もれていたのだったが、今年は草取りが入ったようだった。ひっくり返された土の上に桜蕊が積もっていた。屈んでよく見てみると、ほぼ枯れきった短い草の茎が1本あった。手に取って見るとイヌノフグリの茎だった。種子が入っているさやが割れていた。枯れる前に種子を撒くことができたのだろう。
丁字路のホウキギクは花が咲いていた。それも2つ。冬を越すことができたのだ。強い日差しが、まわりの若い草ともども、ホウキギクを照らし返していた。
2018年4月22日
道の記
神社の伐られたくすのきは、根元の樹皮が剥がれ始めていた。
よく歩いて通りかかる三叉路の木、ベニバナトチノキだなと思っていたが、花のときに通ったのは初めてだった。やっと来ましたね、と言われた気持ちになった。
よく歩いて通る道から丘の上にこんもりした林が見えていたのだが、その林がなくなっていた。そばへ行ってみた。赤土の丘のところどころから木々のちぎれ根が出ていた。種類がよくわからないいろいろな幼木が敷地の端のフェンス際に残っていた。
先日、まちなかに残っていた、森のような林に囲まれていたお家の敷地が空になって建設工事が始まっているのを見た。まちのむかしの風情を垣間見せてくれていた一角だった。敷地の中にきっといろんな木、いろんな草、いろんな生き物がいたことだろう。
フェンスの下のわずかな隙間の地面でアカカタバミが花を咲かせていた。
2018年4月18日
道の記
若い草が出て来ている丁字路の角に、茶色の小さな茎が見えた。近寄って見ると、ホウキギクが枯れているのだった。そういえば去年の秋にここでホウキギクを見た覚えがある。よく見ると、綿毛や綿毛を放った跡のほかに、花弁が白いまま縮まった花があった。冬のたびたび寒かった頃に最後の力で咲いていたのだろうか。いま、春の草に並んで花のままでいる。
そのホウキギクのことを思いながらまたその丁字路に来た。ホウキギクの茎を手に取ると、しなやかだった。生きているかもしれない。そう思ってあらためて見ると、茶色の茎の一端が小さな芽を宿しているようにも見えてきた。また来て見てみようと思う。
2018年4月15日
道の記
少し前、電車を駅のホームで待っていたときに、ちょうど正面のレールのあいだにイヌコハコベらしき草が見えた。ほかの位置には草は生えていず、なんだか待たれていたような気も一瞬した。
その同じ駅のホームで別の位置で電車を待っていたときに、こんどはレールのあいだにイヌコハコベとノゲシが見えた。ああここにもいたんだ、と思って前回のことを思い出した。駅の広場でイベントが行われているらしく、ギターの弾き語りの人の「イマジン」を歌う声が聞こえてきた。
Imagine all the people..、そのpeopleに草は入っているのだろうか。そう思ったとき、イヌコハコベがさっと風に揺れた。
2018年4月14日
道の記
電柱下のイヌムギは引き抜かれていたのだけれど、その1mほど横に小さなイヌムギがいた。丈20cmほどだったか。小さいながら穂を付けていた。
その電柱近くのホトケノザは、1度むしられたのだが茎が1本だけ残っていた。その茎もこのごろは枯れ色になってきたのだけれど、こんど新しい葉が出てきた。
見ている路傍のナガミヒナゲシ、冬場からロゼットを小さく広げていたけれども春になっても生長しない。あまり根を伸ばせないのだろう。この様子だとこのさき大きくならずに短い柄の小さな花を付けるだけになるのではないかと思う。
芝が植え込まれている細い隙間に、スズメノカタビラが芝の仲間みたいな顔つきをして1株生えていた。
そういえば電柱下のスズメノカタビラは少し疲れた様子だった。いまごろは雨で一息ついているのではないかと思う。
2018年4月11日
2018年4月10日
道の記
東小河内の桜はほぼ満開だった。そのとなりで別の種類の桜のように見える白い花も咲いていた。ダムの水は根元から高さで数メートルはもうないように見えた。
ダム湖の別の場所で、水面から少しだけ出ている枝、おそらくこずえの部分だと思うが、そこに山桜の花が咲いているのが見えた。この数日で水位が急に上がったということはないはずで、水に浸かっていながら咲き始めたのだと思う。
その山桜の少し上のまだ水が来ていない所で山桜が咲いていた。
帰り際になかなか立ち去ることができなかった。いまは駐車場になっている旧工事現場入り口から振り返って桜を見た。手を挙げて振った。桜が大きく揺れた。きょう見ていてそこまで揺れた時間はなかった。私も大きく手を振った。また来ると伝えた。